僕が幼い頃、夏には夕立が降った。
夕方前に入道雲が発達し、いつしかその雲に覆われ、土砂降りが降った。
雷も鳴った。
稲妻が走った。
でも、最近の豪雨より可愛かった。
降り止むと虹が出た。
No.05246 24.07.24 箱の解剖
思い出すとはどういうことだろうか?
思い出すのは一瞬で、全体を感じる。
そのあとで説明のために細かい部分を言葉にしていく。
ところが、説明に時間がかかる。
だから思い出すことにも時間がかかっているように感じてしまう。
何度も思い出を文章にしていて気づいたのは、僕の場合、思い出すのは一瞬ということ。
この一瞬で思い出の全体像を得ている。
そののちに細かいことをポロポロと知覚していく。
その細かいことは、前提があってはじめて思い出す。
たとえば、昨日書いた不思議な体験のことをマルッと思い出す。
そののちに「バリ島で一緒にいた女性の名は?」と問われれば、思い出すことができる。
だけど、バリ島での思い出と紐づいてない状態でその日の日付を言われて、「その日に一緒にいた女性の名は?」と問われても、いったい誰のことやらさっぱりわからない。
つまり思い出は、箱のような仕切りで仕切られている気がする。
箱が明確になると、中身もはっきりする。
その箱は、不思議な箱で、多次元の形を持つ。
たとえば、「バリ島での鳥の思い出」と言われると、昨日の話のほかに、別のときに体験したことも思い出す。
「バリ島での」を抜いて「鳥の思い出」と言われれば、もっとたくさんのことを思い出す。
だけどいきなり「どんな思い出がありますか?」と問われたら、「バリ島での鳥の思い出」に含まれることを思い出さないかもしれない。
つまり思い出は、集合の帰属と包含のような簡単な関係ではない。
だからそれを普通の箱のように思うと、それは違う。
ある一面から見ると箱のようであり、別の面から見るとネットワークのようである。
だから、不思議で多次元な箱だと思う。
No.05245 24.07.22 箱の秘密
夢で見た箱がなぜ楽しいのか、探究してみることにした。
フタが白くてそれ以外が青い箱で思い出すものは何か?
自分の人生の中では何も思い出さない。
ふと出てきたものは、古代文明の遺物によく出てくる鞄のようなもの。
でも、関係なさそうだ。
次に思い出したのは、チチェン・イッツァに行ったときの不思議な出来事。
今から10年ほど前、チチェン・イッツァに行った。
そこを発掘した一族が建てた建物が改装されてリゾートホテルになっていたのでそこに泊まった。
翌朝、大きな鳥が泊まっていた部屋のガラス窓に当たって死んだ。
屋根のあるベランダが広く、その奥にあった窓までよく鳥が飛んで入ってきたなと思った。
そのまた翌朝、友人から電話があった。
共通の友人が死んだという知らせだった。
共通の友人はかなりのサイキックだった。
ときどき不思議なことを言うと、それにまつわる不思議な出来事が連鎖した。
その友人が突然死んだ。
それでふと、昨日の鳥はそのサイキックな友人が知らせに来たのかなと思った。
すると、その瞬間、感じたことのない感覚がやってきた。
その感覚はあえて言語化すると、「この世界が多次元であることに深く気づけ」とか、「この世界には無限の解釈が存在することに深く気づけ」とか、そんなことを伝えられたようだ。
「なんだ今のは?」と思ったが、それ以外何も起きなかった。
メキシコから帰って、僕は出版パーティーを開いた。
宝生明という別ペンネームでSFファンタジー『太一〜UFOに乗った少年』を書いた、その出版パーティー。
その席上で、水晶画家のAkiraに久しぶりに会った。
メキシコ、チチェン・イッツァでの体験について話したら、急に「やっとわかった」という。
「なにが?」と聞いたら、こう答えた。
「はじめての個展『創世記』に、『タイムマシンの窓より アルバート・アインシュタイン』という作品を描いたんだけど、その裏にさぁ、なぜだかわからないけどこう書いたんだよ」
「きみたちはいずれ
いくつもの宇宙と
いくつもの自分に
気ずく時が
くるだろう」
「これってさあ、『この世界が多次元であることに深く気づけ』と同じこと言ってるよね」
「確かに」
それで、その絵を後日預かることになった。
チチェン・イッツァでの体験の一ヶ月後、僕はバリ島にいた。
1999年から毎年のようにバリ島のニュピというお祭りに通っていた。
そのお祭りの日、バリ中の人が一日家に籠り断食する。
その日にウブドのプリカレラン王家で、そこの当主と一緒に一日半断食断眠瞑想をした。
僕のブログにその体験について書いていたので、一緒に体験したいという女性からメールをもらった。
バリ島で会ってニュピの前にお話しした。
彼女は瞑想をしたことがないというので、ホテルの部屋で一緒に練習のための瞑想をした。
瞑想のあと、メキシコ、チチェン・イッツァでの体験について話した。
話がほぼ終わり、「この世界が多次元であることに深く気づけ」とか、「この世界には無限の解釈が存在することに深く気づけ」とか、そんなことを伝えられたようだと言ったら、その部屋の窓ガラスがバンッと鳴った。
何かがぶつかったような音。
「これで鳥が窓にぶつかっていたらびっくりだよね」と窓際に行くと、小鳥が一羽、窓の外で死んでいた。
ニュピの日の深夜から断食断眠瞑想を始めた。
翌朝、瞑想していると、目の前のガラス窓にバタバタと音がする。
目を開けると、小鳥がガラス窓にぶつかりながら、こちらに入ろうとしている。
「これはいったいなに?」
しばらくしてその小鳥はどこかへ飛んで行った。
また瞑想を始めると、一時間程して同じことが起きた。
ガラス窓で小鳥がバタバタしていた。
鳥がガラス窓にぶつかって死ぬのを見たのはメキシコが生まれてはじめてだった。
それがバリ島でも同じ体験をし、しかも今度は目の前で小鳥がガラス窓を通り抜けようとして羽ばたいていた。しかも、二回も。
バリから帰るとAkiraに会って、『タイムマシンの窓より アルバート・アインシュタイン』を預かった。
青い幾何学的な曼荼羅を背景に、四つの目を持つアインシュタインが舌を出している絵だった。
この一連の出来事を思い出した。
白いフタの青い箱についての探究はまだ続きそうだ。
No.05233-2 24.07.02 まなざしの色
モネの絵に
母の顔は見えずとも
水面に浮かぶ
まなざしの色
No.05230 24.06.21 雨音
普段は聞き流す雨音。
ときどき耳を傾ける。
いろんな思い出が浮上してくる。
忘れたくない思い出。
とうの昔に忘れたはずの思い出。
そんなこと確かにあったなと思うような思い出。
すっかり忘れて事実か夢か判然としない思い出。
すべてはぼんやりと優しさに包まれた思い出になっていく。
No.05220 24.06.01 文章を書くことで得る気づき
大学生の頃まで、僕は文章が下手でした。
どうしても最初に思っていたことと、書いている途中に生まれてきた思いとのあいだに違いが生まれるのです。
最初に「右に行く」と書きたかったはずが、色々と書いていくうちに「左にも行きたい」となり、最後には「右でも左でもいいからとにかく行けばいい」みたいな文章になって、「文章量超過、最初から書き直し」みたいなことがよく起きました。
「だから僕は文章が下手」というレッテルを自分で貼ることになりました。
ところがなぜか、就職して文章を書くようになると、きちんとした文章が書けるようになっていました。
当時の僕には理由がわかりませんでした。
でも「よかった」と思う、書けるのですから。
ライターになって文章を書き、たまたまの巡り合いでヒーリング・ライティングというのを始めました。
そこでリフレーミングを何度もするようになった。
すると、自分の内側に何かムラムラ感というか、モヤモヤ感というか、言語化できない不思議な思いを抱えるようになりました。
「これは一体なんだ?」と思いますが、うまく説明できない。
これを説明するのが僕の挑戦の一つになりました。
幼い頃からいろんな本を読んでいたので、手当たり次第の読書を続けて行きました。
すると、偉大なグルと言われるような人の本に、「自分の内側に何人もの人格がいることに気づき、それを手なずけなさい」ということが書かれていました。
意味不明でした。
気にもしなかった。
ところが、ある時、幾つもの洞察が一つに重なる時が来ました。
すると、自分の内側にいる何人もの人格に気づくことができました。
ずっと僕は「僕」という一人の人間だと思い込んでしたのです。
もちろん肉体は一つです。
でも、そこに宿っている精神は、時には女になり、時には暴漢になり、時には金の亡者になり、時には父になり、時には経営者になり、時には聖者になるような、悪くいうと安定しない、よくいうと可能性をたくさん含んだ精神で、互いに矛盾し、それを無理やり頭のどこかで制御しようと必死にもがいているのでした。
だから、若い頃には文章がまとまらなかったのです。
就職すると、身分をわきまえる必要が生まれます。
そのことが文章をまとめさせてくれていたのです。
何十年も文章を書き、自分の内側の矛盾と付き合ってきたからこそ、それが理解できるようになりました。
そして、その先の可能性もちらちらと見えてきました。
No.05215 24.05.25 金光明経
キリスト教では懺悔が大切なおこないとされているが、仏教にも出てくると聞いて興味を持ち、その話が出てくる金光明経を手に入れた。
まだ読んでないのだが、積読状態のその本を見てふと思い出したことがあった。
30年ほど前、ある女性に声をかけてもらったことがきっかけで、巡り巡ってその後『胎内記憶』を書くことになった。
その後疎遠となったが、お礼も言ってないし、「懺悔」ということばに何か響く部分があった。
そう思った次の晩、長い夢を見た。
30年前の、ずっと忘れていたことと、何か関係のありそうな出来事が出てきた。
朝には覚えていたのだが、今はまた忘れてしまった。
No.05209 24.05.14 枇杷
この季節になるとあなたのことを思い出す。
毎年のように実をつけてくれた庭にあった枇杷の木。
肥料も何もあげなかったから、妙に酸っぱいその味。
でも、それが好きだった。
普通に売られているどんな枇杷も、あなたの味には敵わない。
幼い頃に食べた枇杷の種を庭に吹いたら木になった。
20年ほどして実をつけた。
四十過ぎで引っ越すとき、あなたを連れて行くことはできなかった。
今でもそれを悔いている。
ごめんね。
No.05208 24.05.13 平等院
十円玉の表面にデザインされている宇治の平等院。
別名鳳凰堂。
建物の美しさに惹かれ、小学生の頃にプラモデルを作った。
阿弥陀如来のお顔が建物の正面から見えるように穴が開いていた。
50年以上の時を経て、訪ねてみた。
正面に立つとプラモデルと同じように、穴から尊顔を拝することができた。
堂宇に入れていただき、如来様の正面に立つ。
見上げると天井の装飾から黄金の光が降り注ぎ、極楽浄土に招かれたようだ。
母方の家系は阿弥陀様に帰依する宗派の僧侶だった。
母が幼かった頃、僧侶である父親から聞かされたという話を思い出す。
いい供養になったと思う。
No.05207 24.05.10 奇跡的なこと
ある人に「奇跡が好きなんですね」と言われた。
好きなのかなぁ?
ときどき「そういう話って気持ち悪い」という人がいる。
そういう人には奇跡的なことが起きないのかな?
起きてもきっと気持ち悪いので忘れるのかな?
好きかどうかはわからないけど「そんなこと、起こるわけないでしょう」ということがときどき起きる。
あまりにも不思議なのでその話を誰かにする。
それって、僕が好きだから起こしているのだろうか?
無意識の作用で?
もしかしたら、そうかもしれない。
だって、そういう話にワクワクするから。

