No.05203 24.05.04 アイデアのつくり方とあるがまま

昔、何十年も前、『アイデアのつくり方』という本を読んだ。
とても薄い本で、あっという間に読めたことを覚えている。
だけど書かれていたことはとても貴重で、その通りにやると確かにアイデアが生まれてきた。
ざっくりと書くとこんな話だ。
まず、アイデアを作りたい分野の情報を集める。
その情報を徹底的に知悉する。
アイデアを作るためにあれこれ悩む。
そして数日、アイデアについて考えるのをやめる。
すると、ぽっかりとアイデアが浮かぶという。
僕はこれを何回か体験している。
この「アイデアについて考えるのをやめる」とき、静寂が訪れる。
昨日書いた「あるがままのものをあるがままに見るとき、現れてくる静寂」と似ている。

No.05178 24.03.25 声字実相義

30年ほど前、あるきっかけでヒーリング・ライティングを始めたが、ある高僧から助言をいただく機会を得て質問した。
その高僧は「声字実相義を読みなさい」と答えた。
一度読んだだけではよく意味がわからなかった。
二度三度と読んで、少し意味がわかった。
読むたびに意味が深くなる。
二、三年前にやっと理解したことが、すでにここに書かれていた。

No.05176 24.03.22 見つめられ

あなたの瞳に見つめられ
 自分の名前を忘れてしまう。

あなたの瞳に見つめられ
 恐れが何かを忘れてしまう。

あなたの瞳に見つめられ
 なぜここなのかを忘れてしまう。

大きな瞳
深いその声
情の波が伝わってくる。

あなたの瞳に見つめられ
 呼吸の価値を思い出す。

あなたの瞳に見つめられ
 忘れた喜び思い出す。

あなたの瞳に見つめられ
 命のつながり思い出す。

手をつなごう
ずっと心をつないできた
それを思い出すべきときがきた。

__マウイ島ラハイナの
   ホエールウォッチングを思い出して

No.05170 24.03.13 チェーホフの銃

誰も発砲しない銃を舞台においてはならない。
有名な話だ。
人生において「チェーホフの銃」はたくさんある。
幼い頃の記憶が、年老いて効いてくる。
年老いて効かない記憶は、記憶自体が失われる。
だから、記憶は慈しむべきである。

No.05164 24.03.07 雪の日

小学生の頃、僕は冬でも半ズボンを履いていた。
乾燥した日が続くと股の内側がこすれて痛くなった。
それでも母は半ズボンを履かせたがった。
母には幼い頃に寒さに慣れると、大人になっても風邪をひきにくくなるという思い込みがあった。
だから、僕もそれに従っていた。
きっと今の基準で考えると、虐待ということになるのではないかと思う。
でも、僕は虐待とは思っていなかった。
母なりの愛情の表現だと思っていた。
他にも半ズボンで通す子は多かった。
でも、雪の日だけは長ズボンを履かせてもらった。

No.05147 24.02.11 月の夜

浅草寺に行くと「染め絵てぬぐいふじ屋」に寄りたくなる。
30年ほど前、はじめて連載をもたせてもらった月刊誌に、日本の伝統美についてのコーナーがあった。
「日本の美」と題されたその原稿もときどきまかせてもらった。
確か二度目くらいのインタビュー相手が、ふじ屋さんの初代川上桂司さんだった。
そこで知る江戸時代の手ぬぐいのデザインに魅了された。
以来、浅草に行くとお店を覗く。
行くたびに一本ずつ手拭いを買ってきた。
目鯨 https://www.instagram.com/p/CTuL0MihA0I/?img_index=2
いとし藤 https://www.instagram.com/p/CM6EhgWg8Gn/
京伝てぬぐい https://www.instagram.com/p/CTq_7PHlbqS/?img_index=1
など。
どれも江戸時代から伝わるデザインの手拭い。
今回も寄って一本買った。
それが「月の夜」。
お店でたなごころに載る程度の大きさにたたまれた手ぬぐいは、紺地に白い丸だけが見えていた。
それを見て「これは月だ」と直感した。
なぜ月だと思ったのか。
月にうっすらと雲がかかっていたのだ。
たたんだ手ぬぐいを開いていくと雲の正体がわかった。
細長い手ぬぐいには縦長に置いたとき、上に月、下は静かな水面で、そこに映しだされた月の明かりがゆらゆらと揺れていた。
その揺れが、たたんだときに月の裏側から透けて見え、それを雲だと思ったのだ。
なんと粋な。
あとで知るが、これはふじ屋さんの三代目川上正洋氏がデザインしたそうだ。
買わずに帰るわけにはいかなくなった。

月の夜
https://www.instagram.com/p/CUPpd_3Potz/?img_index=1

No.05128 24.01.09 華厳経は何が面白いの?

それには簡単には答えられない。
華厳経にはいろんな内容が精緻に折りたたまれ、比喩となり、こちらの知識を刺激して、解明してくれるから。
例えば、毘盧遮那仏を宇宙と見立てると、現代の宇宙物理学を教わっているかのように思えてくる。
如来や菩薩の会話の構造は、ホロンに関して教えられているようだ。

その内容がなぜ言葉にしにくいのかというと、第一章にあたる寂滅道場会の最後に童子(こどもor青年)が出てきて、仏と会話をし、悟りとはどれだけ素晴らしいことかと話すのだが、その会話はほんの五十行程度で終わる。
華厳経の最終章である入法界品では、文庫本三冊で善財童子がどのように悟っていくかが示される。
その方法は基本的には悟ったといわれる人たちに会って、その話を聞いていくだけなのだが、いろんな人に会い続けるうちに次第と童子の心の中に生まれてくる内容が大きくなっているだろうことが読み手に推測され、書かれていることが理解されるのと同時に、書かれていないことも大きく膨らんでいく。
何度も何度も似た話を繰り返されたりもするが、そのことによって、その内容のわずかな違いが大切であることに気付かされ、そのわずかな違いに注意を払い出すと、その理由が見えてくるようになる。
寂滅道場会の最後に五十行程度で記されていたことが、実は如来になると文庫本三冊分の膨大な知恵になっていることが明確になる。
つまり華厳経で教えてもらうことは、言葉で簡単に教えてもらうことがどれも、実はものすごい時間や空間や人々の会話や、深い知恵によって作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解し、常にそのことを背景にあらゆることを感じるというのはどういうことであるかに目覚めていることとはどういうことかを伝えてくれている。
つまりそれは、どんなに簡単に思える存在でも、実はものすごい時間や空間や生死を通して作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解することであり、それに目覚めた状態で世界と対峙するとはどういうことかを教えてくれる。
だから、読む人によって見えてくるものはきっと違い、その違いがガンジス川の砂粒の数ほど多いのだろうことが理解される。

No.05115 23.12.19 A Symphonic Celebration – Music from the Studio Ghibli Films of Hayao Miyazaki

タイトルのアルバムを聞いた。
聴き始めて泣いてしまった。
楽曲や音が素晴らしかったのはもちろんだが、いろんな思い出があふれだした。
まず僕は久石譲が映画音楽を書き始める前から知っていた。
高校一年のとき、映画「ロッキー」がヒットし、それをブラスバンドで演奏することになった。
確かリットーミュージックの吹奏楽団用スコアの編曲を久石譲がしていた。
映画ではCでファンファーレが始まるのだが、久石の編曲ではE♭で始まっていた。
その方が楽器の特性上よく響くのだ。
他にも、これ間違いかなと思うほどきめ細かい編曲がしてあった。
リピートの部分、一度目はテンションのかかった音を吹かせておいて、二度目はテンションのかからない音にするなど。
それで久石の名前を覚えた。
しばらくすると、ヤマハのニュー・サウンズ・イン・ブラスの編曲も始めた。
つまり、ちょっと格が上がったように感じた。
リットーミュージックの楽譜は手書きを印刷したものだったが、ヤマハは綺麗に機械によって印刷されていた。
大学生の頃に「風の谷のナウシカ」の音楽をやっているのを知る。
すごいなあと思った。
それからの活躍は皆さんのご存じのとおり。
そして、今回はドイツ・グラモフォンから「A Symphonic Celebration – Music from the Studio Ghibli Films of Hayao Miyazaki」を発売した。
グラモフォンはクラシック音楽のレーベルとしては一番と言っていい名門。
そこから発売されていたカラヤンのアルバムを昔よく買った。
でも、この思い出は泣くような種類の思い出ではない。
次に思い出したのは、母のことだ。
氷川台にシェ・ソワというフレンチのレストランがある。
そこの料理がとても美味しい。
単に美味しいだけでなく、とても懐かしいのだ。
何度かかよううちに、その理由がわかった。
シェフがプリンスホテルで修行したのだ。
昔、苗場や軽井沢、箱根など、何度か食事したことがあった。
母がプリンスホテルの味が好きだった。
生前「練馬には美味しい店がない」と文句を言っていた。
だから、母をシェ・ソワに連れて行きたかった。
そこでのBGMはいつも久石の曲なのだ。
こういう思い出が積み重なって泣けてしまう。
歳を取るとはそういうこと。
タイトル通り、まさにセレブレートしてもらった気がする。

No.05109 23.12.12 金枝篇

父の書斎に英語の厚い本があった。
それが「The Golden Bough 金枝篇」だった。
当時は何の本だったが分からなかったけど、父が死んでから初版の日本語訳を読んだ。
それでこの膨大な著作の全貌を知った。
初版は二巻で出版されたが、版を重ねて三版は11巻の作品となり、さらには索引と文献目録、補遺が追加され、全13巻にもなった。
作者のフレーザーは、それでは一般読者は読まないだろうと、後日簡約本を出版する。
岩波文庫の金枝篇は全5巻だが、この簡約本の翻訳だという。
13巻ある完全版の日本語訳は出ないものかと思っていたが、国書刊行会が全10巻別巻として、第8巻まで出しているのを知った。
どの巻も一万以上するし、専門家でもないので買うのは控えていたが、誘惑に負けて第1巻を買ってしまった。
そもそも父は大学でエリオットの研究をし、中央公論社に入ってからエリオット全集の編集をした。
エリオットの代表作「荒地」は金枝篇の内容を骨格にしているという。
全訳がでたら父はきっと読みたかっただろう。
第1巻のページを開くと、父に全巻揃えろと催促されている気がした。