自分の内側にいくつもの人格があることに気づいたら、次にやるべきことは自分に対する肯定と否定だ。
肯定ばかりではいけない。
だからと言って否定ばかりでもならない。
どの視点から見て肯定で、どの視点から見て否定かを吟味する。
それだけで、次の行動に変化が現れる。
視点が増えるほど自分の器が広がることになるが、行動に移すのが難しくなる。
顕在意識での思考は難しくなるが、潜在意識の思考が活発になると僕は思う。
No.05554 26.06.13 世界平和を祈る
人は以前より高度な知恵を持つたびに争わざるを得なくなるようだ。
古事記、日本書紀以前の歴史が露わになりつつある。
しかし、そのような文献はたいてい偽書とされる。
偽書扱いにすることでその研究さえも封印される。
真偽について僕は深く研究していないが、バリ島に何度か通ったことである気づきを得た。
それは、統一された神道は古事記以前にはなかったのだろうということ。
バリ島には各地に王族がいる。
それらの王族は似てはいるが別の宗教体系を持っていて、互いにそれがどのようなものかを秘密にしている。
これは宗教の発生を考えるときに、そうなるだろうなという予測がある程度つく。
日本も土地ごとにいろんな神様がいて、その神様がどんなことをしたかという伝承は、距離が離れれば離れるほどさまざまなものになっただろう。
だからこそ日本書紀では似た話のいろんなバージョンが収められている。
地域によってはあまりにも独特で、日本書紀に収められなかったものも多数あっただろう。
それらを古事記で統一し、ある時からそれ以外の話は認めなくなった。
そういうことだと僕は理解している。
人間は次第に生息域を広げる際に、もともとあった文化同士がぶつかり合い、どちらを採用するかで争うことになる。
平和に融合し、文化が高度化していけばいいのだが、そうならないことが度々起こってきたようだ。
そのようなとき、どのように互いの文化を融合させるかについての知恵が、あちこちで生まれただろう。
それは世界的な知恵のネットワークがなかった時代ではいろんなものになる。
そこで、平和的融合や、武力による制圧が生まれた。
その表面上のことを僕たちは歴史で学ぶ。
しかし、その時代に生きていた人たちにとって、そこで学ぶこと、または強いられることは、その時代、その地域の文化を作る上で大きなことであり、その結果生み出された遺物や文書は現代にも残されれば得ることができるが、形に残されなかった口伝のようなものは推測に頼るしかない。
非二元論という明確に言語化できない知恵について追いかけているのは、きっとどこかで平和についての隠された知恵について触れることができるのではないかという期待からである。
しかし、それは表面上、まったく別々の表現になっているため、統一された思想体系のようには思われない。
その骨組みがやっと分かったが、それを他人に説明するのが難しい。
四苦八苦している。
chatGPTを相手に対話を重ねている。
以前より考察の広がりが早くなった気がするが、chatGPTは滅多に相手を否定しないので、上手い話ばかりが集まってきているようで、自分で考えたほうがいい方向性が探せるのかもしれない。
そんな試行錯誤を繰り返している。
これは僕の世界平和への祈りの形なんだなと思う。
No.05553 26.06.12 心が震える言葉にできないこと
五年前、退院して以来、体調が安定しない。
五年も経つのに!
いまだに血圧が上で80ないことがよくある。
100ないと僕にとっては動くのが大変。
その状態で無理に気合いで動くと、あとで動けなくなるので無理はしないようになった。
でも、このことが僕に考える時間を与えてくれる。
このところ朝に特に血圧が低いから文章が書けず、夜に気持ちいいものを書くようになった。
すると、書きながらよく眠ってしまう。
それで発行が真夜中になったり、書けなかったことが何度もある。
でも、そのおかげか、無意識の部分に何らかのインパクトがある気がする。
それが何だとは上手く言えない。
顕在意識ではわからない。
でも、なんかあるような気がする。
このモヤモヤについて書く。
ひとつに もしかしたら、自分の立場を肯定するためにこんなことを考えているのかもしれない。
病気になってまともに仕事ができない、この自分を肯定するために。
その可能性は充分あるし、それを知った上でこのあとの話は書いていく。
退院して以来、眠いときに起きていられなくなった。
以前は五分瞑想すれば、意識ははっきりした。
そんなことを続けたから体調を崩したのかもしれない。
だから、瞑想するとつい眠ってしまうことが恨めしかった。
気持ちいいものを書こうとして眠ってしまうたびに恨めしい。
これは心にはよくないこと。
それは知識としては知っている。
しかし、感情は生まれてくる。
感情を抑えることはできる。
でもね、と思う。
まあいい。
何度も夜に書こうとして書けずに眠ってしまい、恨めしく思って布団に入った。
朝まで無理すると、翌日何もできなくなる。
こんなことを続けながら非二元論について考えを巡らせる。
非二元論について「なるほど」と思ったのは何度もあるが、思い返せば入院の前後からはっきりとしてきたような気がする。
はっきりとはしたが、非二元論を理解するというのは無限と対峙することでもあり、人間の頭では処理しきれない。
それを説明しようとするから元々無理なのだ。
その無理を超越しようとしている。
昔、中村公隆和尚に「声字実相義を読め」と言われた。
はじめて読んだときには「ソシュールと似たことが書かれているな」と思ったが、あちこちでそれとは反することも書かれていた。
だから何と理解してよいかわからなかった。
それ以来、仏典を読む率が高くなった。
あちこちで矛盾している話を理解するのではなく、呑み込んでいった。
あっちにもこっちにも矛盾だらけである。
ちっとも科学的ではない。
だから理解するのではなく、とにかく呑み込む。
「へーそうなんだ」みたいに。
しかし、時間が経つと、「へーそうなんだ」ではなく、「そうだよね」になり、矛盾に感じていたことがどこかわかる気になってきて、あるとき一本の線としてつながり、それが平面をなし、立体になり、立体曼荼羅となり、多次元を空想するようになった。
この多次元の空想が、非二元論の入り口になる。
それに気づくとパズルはガチっと組み上がった。
だけど、すべてを理解はしていないことも理解できた。
この部分は言葉にしようがない。
どこにも存在しない、空想の中にのみ生まれ出るものだった。
今度それを説明しようとする。
それで気づくことがある。
その気づきは、顕在意識だけのものではない。
巡り巡って「そうか」と思うことが生まれる。
その「そうか」は言語化できないので、何度も忘れた。
忘れてはしばらくして思い出す。
それの繰り返し。
それを繰り返すことではっきりしたことがある。
夜に机に向かって眠ってしまい、夢の中でそれに触れ、その出来事を忘れて恨めしく思う。
その繰り返し。
昨日「日刊 気持ちいいもの」を二回発行した。
一度目は「No.05551 26.06.10 考える」。
これは一昨日の夜、机に向かって考えて、一度眠って、目が覚めて書いた。
書きあげたのが午前三時を過ぎていたので、メルマガで配信したのは翌日の昼過ぎだった。
「こりゃいかん」と思い、その日にもう一度、昨日の分の気持ちいいものを夕飯前に書いて送った。
「今夜は早く寝られる」と思い、午後10時には布団に入った。
ところが、午前2時に目が覚めてしまった。
トイレに行ってから机に向かう。
「なんで机に向かうんだ?」と思ってからふと気づくと午前5時。
空が明るくなり始めていた。
あわてて布団に入った。
そこでじんわりと感じる。
今まで出会ってきたことや人への感謝の念。
そして、これが天命だったのかという思い。
朝にいつも来てくれるメジロが鳴き出した。
No.05547 26.06.04 非二元論
非二元論についていつか知りたいと思ってきた。
その概要について理解したと思うので、「ヌースフィアってなに?」にその内容を少しずつ伝えていく。
でも、かつての聖者たちがみんな「表現不可能」とした考えを表現していくのは無謀なことである。
でも、それを言葉に、映像にしていく。
理解してもらえるかな?
理解できたら非二元論ではないのだよな。
未熟な考えをさらしていくことになるのかも。
でもそれをしてみたい。
ここまで来るのに30年以上かかったんだ。
i_n_f_o_r_m_a_t_i_o_n___________
「ヌースフィアってなに? 第17回」を
YouTubeにアップしました。
今回のテーマは
「非二元論を学ぶ1」です。
https://youtu.be/iS8cOdy6NtM
No.05531 26.04.30 維摩経
サンスクリットから訳された維摩経を読んだ。
菩薩や仏弟子たちの情けない話から始まる。
このお経の主人公である維摩が病気になったから見舞いに行ってやれとお釈迦様がいう。
しかし、誰も行きたがらない。
維摩は在家信者だが、出家した菩薩や仏弟子たちより知恵が優れていて論争になるとついやりこめてしまうので誰も近づきたがらない。
そこで知恵が秀でた文殊菩薩がお見舞いに行くことになった。
すると、維摩と文殊菩薩の話が聴きたいとたくさんの菩薩や仏弟子たちが集まってくる。
維摩はそれを見越してたくさんの人が入れるように家を空っぽにしておく。
維摩は不二の法門についてたずねると集まった菩薩たちがそれに答えていく。
いろんな答えがあり、不二の法門とはいったい何かがいよいよわからなくなっていくが、それに対して文殊菩薩がいう。
「善き人たちよ、あなたたちはすべて、巧みに語った。しかしながら、あなたたちが〔言葉で〕解いた限りでは、そのすべてが、二元的に対立するものです。一つの説法でさえもやめて、あらゆるものごと(一切法)について詳述することもなく、解説することもないこと、〔また〕発言もなく、陳述もなく、言説もなく、〔概念を仮に〕設けて言うこともない、これが、不二の法門に入ることです」
サンスクリット版全訳現代語訳 維摩経 植木雅俊訳 より
維摩に「あなたの教えを説いてください」と文殊菩薩がいうと、維摩は何も言わない。すると文殊菩薩が「素晴らしい、これが不二の法門に入ることだ」と宣言した。
これは非二元論の一部だとわかるが、その先でさらに話が難しくなっていく。
何度も読み直すことになりそうだ。
No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)
大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。
No.05526 26.04.20 永遠に存在する
「バガバットギーター」にこういう一節が登場する。
わたしも 君も ここにいる全ての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ
神の詩 バガバットギーター 田中𡢃玉訳 TAO LAB BOOKS刊
はじめて読んだ時、まったく気にしなかった。
あまり深く考えなかった。
人が「始めなく終わりなく永遠に存在」などする訳がない。
かつてはそう思った。
ところがある見方をすることで確かにそうだなと思う。
その見方をすると、先ほどの一節は確かにそう思える。
生命はすべて
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在している
No.05513 26.03.23 観自在で思い出したこと
昨日、ある僧侶の法話を聞いた。
話が観音経の内容になった。
観音経は法華経の一部で、観世音菩薩普門品という。
観音様は翻訳によっては観自在菩薩ともいう。
観音様はこの世界をいろんな見方で見ることのできる菩薩様で観自在といわれる。
だからどんな苦境にいる人も救い出すことができる。
法話では「人間にはなかなか物事の本当の姿を見ることができない。だから同じ本を読んでも読むたびに違う印象になったりする」と説かれていた。
その話を聞いて一晩寝たら面白いことに気づいた。
一年ほど前に思い出せなかった名前を思い出すことができた。
それはケニアにいた象の名で「アジョク(Ajok)」と呼ばれていた。
その象は動物孤児院で会うとすぐに僕の目の前で地面にお腹をさらすように寝そべってしまった。
すると孤児院の職員たちが笑い出した。
聞くと「僕にかまってほしいのだ」という。
「どうやって?」と聞くと、「お腹の上に乗ると喜びますよ」という。
アジョクはすでに僕の背より高い象だった。
体重は数百キロはあるだろう。
そんな象にどう対処しろというのか。
怖くて辞退した。
そのときの僕には「怖い」としか思えなかった。
でもアジョクは日本から来た見知らぬ僕にも心を開く優しい象だったのだろう。
その天使のような象を拒否してしまった。
観自在菩薩の話を聞いて、寝て起きるとアジョクを思い出すとは、人の記憶って不思議だなと思う。
No.05500 26.02.11 気持ちいいものを超越する
日刊 気持ちいいものを1999年から書き続けてきた。
はじめはヒーリング・ライティングの一つのエクササイズとして。
これを書き続けることで何が見えてくるのか。
何かが見えるだろうと思って始めた。
書き続けるうちにいろんなことが見えたきた。
はじめは「他人を気にせず書きたいことを書く」として始めた。
ところが、読み手のいない文章はとても書きにくいことに気付く。
そのうち読み手のことも多少気にするようになる。
気持ちいいものとして性的なこと、排泄に関すること、極端に意地悪なことなどは、読者のために書かないことにした。
しかし、気持ちいいものを想像する限り、それらがついてまわる。
それらを書かないことにはしたが、無視はできない。
すると、書いている文章とは別に、心の中に何物かが立ち上がってくる。
この何物かに言葉を与えても、きっと他人には理解してもらえない。
それに似たものがないか探してみる。
宗教、歴史、心理学、言語学、SF、いろんな本を読んだ。
そして似たものを見つけてはそれについて考えた。
どれほどそれを繰り返したろう。
バカだなと思うほど繰り返した。
そして言語化しにくい概念を少しずつ言語化できるようになってきた。
このこととは別に、ヒーリング・ライティングを始めた頃から気になっていた言葉があった。
非二元。
説明をいくら読んでもわかったようなわからない言葉。
それを会得するようになりたいとずっと思ってきた。
仏教の最奥の教えも非二元に関することだからだ。
それがなんとなく理解できるようになってきた。
気持ちいいものを繰り返し考えることでそれが理解できるとは思ってもみなかった。
そのことをいくら説明しても、言葉では説明できないのも理解できた。
多くの人が非二元を理解し、それに触れることを表現し始めたら、自然と理解する人は増えていくだろう。
でも、集中してないとすぐに忘れる。
早く会得したい。
会得したいという考えが非二元的ではないな。w
No.05489 26.01.11 気持ちいいものとは何か
自分にとって気持ちいいものとは何かを考える。
いろんな側面があるが、とても大切な観点を一つ。
それは、「可能であれば繰り返したいこと」だ。
天は僕に気持ちいいものを与えたのと同様に、すべての生命に気持ちいいものを与えた。
そしてそれはきっと、生命にとっては「気持ちいい」としか認識していないが、俯瞰して見るとそのことが生命にそれを繰り返させているのではないか?
それを繰り返すことで生命は存在を許され、環境との関係を常に新たにするのてはないか?
だとしたら、個としての気持ちいいものと同じように、集団としての気持ち良いものもあるのではないか?
例えば、僕にとっての気持ちいいものと同じように、人類にとっての気持ちいいものがあるのではないか?
人類にとっての気持ちいいものは、誰かが感じるわけではない。
だけど、人類がそれを繰り返さざるを得ないもの。
そして、繰り返すたびにわずかな変化を与えるもの。
具体的にそのようなものが何かと考えると面白い。
これからしばらく、人類にとっての気持ちいいものを考えてみようかな。

