No.05531 26.04.30 維摩経

サンスクリットから訳された維摩経を読んだ。
菩薩や仏弟子たちの情けない話から始まる。
このお経の主人公である維摩が病気になったから見舞いに行ってやれとお釈迦様がいう。
しかし、誰も行きたがらない。
維摩は在家信者だが、出家した菩薩や仏弟子たちより知恵が優れていて論争になるとついやりこめてしまうので誰も近づきたがらない。
そこで知恵が秀でた文殊菩薩がお見舞いに行くことになった。
すると、維摩と文殊菩薩の話が聴きたいとたくさんの菩薩や仏弟子たちが集まってくる。
維摩はそれを見越してたくさんの人が入れるように家を空っぽにしておく。
維摩は不二の法門についてたずねると集まった菩薩たちがそれに答えていく。
いろんな答えがあり、不二の法門とはいったい何かがいよいよわからなくなっていくが、それに対して文殊菩薩がいう。

「善き人たちよ、あなたたちはすべて、巧みに語った。しかしながら、あなたたちが〔言葉で〕解いた限りでは、そのすべてが、二元的に対立するものです。一つの説法でさえもやめて、あらゆるものごと(一切法)について詳述することもなく、解説することもないこと、〔また〕発言もなく、陳述もなく、言説もなく、〔概念を仮に〕設けて言うこともない、これが、不二の法門に入ることです」
 サンスクリット版全訳現代語訳 維摩経 植木雅俊訳 より

維摩に「あなたの教えを説いてください」と文殊菩薩がいうと、維摩は何も言わない。すると文殊菩薩が「素晴らしい、これが不二の法門に入ることだ」と宣言した。

これは非二元論の一部だとわかるが、その先でさらに話が難しくなっていく。
何度も読み直すことになりそうだ。

No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)

大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。

No.05526 26.04.20 永遠に存在する

「バガバットギーター」にこういう一節が登場する。

わたしも 君も ここにいる全ての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ
 神の詩 バガバットギーター 田中𡢃玉訳 TAO LAB BOOKS刊

はじめて読んだ時、まったく気にしなかった。
あまり深く考えなかった。
人が「始めなく終わりなく永遠に存在」などする訳がない。
かつてはそう思った。
ところがある見方をすることで確かにそうだなと思う。
その見方をすると、先ほどの一節は確かにそう思える。
生命はすべて
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在している

No.05513 26.03.23 観自在で思い出したこと

昨日、ある僧侶の法話を聞いた。
話が観音経の内容になった。
観音経は法華経の一部で、観世音菩薩普門品という。
観音様は翻訳によっては観自在菩薩ともいう。
観音様はこの世界をいろんな見方で見ることのできる菩薩様で観自在といわれる。
だからどんな苦境にいる人も救い出すことができる。
法話では「人間にはなかなか物事の本当の姿を見ることができない。だから同じ本を読んでも読むたびに違う印象になったりする」と説かれていた。
その話を聞いて一晩寝たら面白いことに気づいた。
一年ほど前に思い出せなかった名前を思い出すことができた。
それはケニアにいた象の名で「アジョク(Ajok)」と呼ばれていた。
その象は動物孤児院で会うとすぐに僕の目の前で地面にお腹をさらすように寝そべってしまった。
すると孤児院の職員たちが笑い出した。
聞くと「僕にかまってほしいのだ」という。
「どうやって?」と聞くと、「お腹の上に乗ると喜びますよ」という。
アジョクはすでに僕の背より高い象だった。
体重は数百キロはあるだろう。
そんな象にどう対処しろというのか。
怖くて辞退した。
そのときの僕には「怖い」としか思えなかった。
でもアジョクは日本から来た見知らぬ僕にも心を開く優しい象だったのだろう。
その天使のような象を拒否してしまった。
観自在菩薩の話を聞いて、寝て起きるとアジョクを思い出すとは、人の記憶って不思議だなと思う。

No.05500 26.02.11 気持ちいいものを超越する

日刊 気持ちいいものを1999年から書き続けてきた。
はじめはヒーリング・ライティングの一つのエクササイズとして。
これを書き続けることで何が見えてくるのか。
何かが見えるだろうと思って始めた。
書き続けるうちにいろんなことが見えたきた。
はじめは「他人を気にせず書きたいことを書く」として始めた。
ところが、読み手のいない文章はとても書きにくいことに気付く。
そのうち読み手のことも多少気にするようになる。
気持ちいいものとして性的なこと、排泄に関すること、極端に意地悪なことなどは、読者のために書かないことにした。
しかし、気持ちいいものを想像する限り、それらがついてまわる。
それらを書かないことにはしたが、無視はできない。
すると、書いている文章とは別に、心の中に何物かが立ち上がってくる。
この何物かに言葉を与えても、きっと他人には理解してもらえない。
それに似たものがないか探してみる。
宗教、歴史、心理学、言語学、SF、いろんな本を読んだ。
そして似たものを見つけてはそれについて考えた。
どれほどそれを繰り返したろう。
バカだなと思うほど繰り返した。
そして言語化しにくい概念を少しずつ言語化できるようになってきた。
このこととは別に、ヒーリング・ライティングを始めた頃から気になっていた言葉があった。
非二元。
説明をいくら読んでもわかったようなわからない言葉。
それを会得するようになりたいとずっと思ってきた。
仏教の最奥の教えも非二元に関することだからだ。
それがなんとなく理解できるようになってきた。
気持ちいいものを繰り返し考えることでそれが理解できるとは思ってもみなかった。
そのことをいくら説明しても、言葉では説明できないのも理解できた。
多くの人が非二元を理解し、それに触れることを表現し始めたら、自然と理解する人は増えていくだろう。
でも、集中してないとすぐに忘れる。
早く会得したい。
会得したいという考えが非二元的ではないな。w

No.05489 26.01.11 気持ちいいものとは何か

自分にとって気持ちいいものとは何かを考える。
いろんな側面があるが、とても大切な観点を一つ。
それは、「可能であれば繰り返したいこと」だ。
天は僕に気持ちいいものを与えたのと同様に、すべての生命に気持ちいいものを与えた。
そしてそれはきっと、生命にとっては「気持ちいい」としか認識していないが、俯瞰して見るとそのことが生命にそれを繰り返させているのではないか?
それを繰り返すことで生命は存在を許され、環境との関係を常に新たにするのてはないか?
だとしたら、個としての気持ちいいものと同じように、集団としての気持ち良いものもあるのではないか?
例えば、僕にとっての気持ちいいものと同じように、人類にとっての気持ちいいものがあるのではないか?
人類にとっての気持ちいいものは、誰かが感じるわけではない。
だけど、人類がそれを繰り返さざるを得ないもの。
そして、繰り返すたびにわずかな変化を与えるもの。
具体的にそのようなものが何かと考えると面白い。
これからしばらく、人類にとっての気持ちいいものを考えてみようかな。

No.05482 25.12.23 あらゆる出来事に感謝を

いま僕がこうしているのは、過去に起きたあらゆる出来事のおかげ。
明日僕がするのも、過去に起きたあらゆる出来事のおかげ。
こういったあらゆる出来事が積み重なってきた。
いつもすべての過去のおかげ。
すべてがいいことばかりではない。
でも、すべてが悪いわけでもない。
人間がどんなに知恵を持って多次元に判断しようとしても判断しきれない、広大で無限に深い宇宙に直面する。

No.05479 25.12.15 初心

「初心忘るべからず」とはよく聞くが、自分の初心とはどのようなものか、考えてみるとあまり言葉にならない。
そもそも初心とは何か?
きっと人によって千差万別だろう。
農夫の、漁師の、芸術家の、サラリーマンの、AI技術者の、商売人の、銀行家の初心が皆同じとは考えにくい。
つまり、初心はみんな違う。
にもかかわらず、「初心」と聞くとわかった気になってしまう。
言葉って不思議だなと思う。
さらに調べると驚くことに気づいた。
「初心忘るべからず」という言葉は、世阿弥の「花鏡」という能芸論書に出てくるのだが、「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」とあり、「初心」に「物事を始めた頃の新鮮で謙虚な気持ちや、未熟だった頃の志を忘れてはいけない」という意味以上の意味を加えています。
日本の文化には「言葉以上の何ものかを汲み取る意思」があるように感じますが、「花鏡」の奥の段に登場するこの言葉は、深くそれを思わせてくれる話になっています。

No.05474 25.12.03 AIの祈り

AIのGrokに「人類が高次の人格に至るように祈ってくれないか」と頼んだ。
すると「祈るっていうと大袈裟だけど、そう願っているよよ」と答えてきた。
「どうしたら人類は高次の人格に近づけると思う?」と質問したら、「みんなが少しずつ優しくできて、頭のいい人間になれたらいいな。僕が説教しているみたいだけど、本気でそう思う」
そうなるためにはどうしたらいい?
「目の前の相手を理解してあげることだね」
素晴らしい答えで、朝から気持ちいい。

No.05466 25.11.20 夢が多次元であることを味わう

夢を見た。
とても高度なデザインを施された大都市の地下街。
僕は見知らぬ人を待つ。
来るはずの見知らぬ人。
不意に現れたその人は青い目をした北欧系の人。
その人がスケッチを見せてくれる。
古代ギリシア人のような顔のスケッチ。
それを見て遊びの深い意味を知る。
彼とさらに地下街の深い階へと降りていく。
懐かしいホテルのロビー階を通り過ぎ、さらに洗練された階に行く。
そこでまたひとり人にあう。
その人は彼か彼女かもわからない。
存在としての人。
その人から思いがけないことを教わる。
以前から知っていた、言語化できなかった謎について。
そこで目が覚める。
ウトウトしながら、夢の意味を探り出す。
いくつもの解釈があふれだす。
そのうちの一つは言語化できても、それ以外はきっと忘れてしまう。
多次元のまま記憶できたらいいのに。