No.05160 24.02.29 閏年

閏年についてあまり詳しくは知らないなと思い、ウィキペディアのページに辿り着いた。
そこで衝撃の事実を知る。
日本では閏年の算定をいまだに皇紀を使ってするそうだ。
明治31年に出された法令が今も効力を持っている。
皇紀はもう使われてないのだと思っていた。

No.05159 24.02.28 世界が変わるとしたら

世界が変わるとしたら、何が起きるのか考える。
いま世界が抱えている問題がすべて解消されるとしましょう。
どんな問題があるのか、思い浮かべてみましょう。
それらが解決されたら、世界は自然と変わりますよね。
その変化が起きないのは、自分が諦めているからかも。
もしそうなら、その諦めを手放しましょう。
変化したのちの世界を思い浮かべましょう。

No.05158 24.02.27 YouTube

映像の編集をした。
映像は文章とは全然違う。
文章ではわかりにくいと感じることが、映像の補助によってすんなりと受け取れることはあるだろう。
逆に、きっと文章なら受け取れることが、映像になると胡散臭く思うこともあるだろう。
何がどう働くのか、実験中、勉強中。

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「ヌースフィアってなに? 第11回 高次の人格を理解する7 自分について」をアップしました。
ご覧ください。
https://youtu.be/7NLSlmx8h3k

No.05157 24.02.26 蕎麦屋と本屋

蕎麦屋と本屋はかつてどの駅にも大抵あったように思う。
それが次第になくなっていった。
不景気だと言われているが、もしかすると違う問題なのかもしれない。
僕が幼い頃はいろんなものが不足していた時代から次第に豊かな時代へと移行するときだったので、商品は均一的なもので十分だった。
きちんと使えたり食べられたりすればよかった。
ところが豊かさが頂点に達すると、商品が画一的なものばかりでは売れなくなってきた。
それに不景気が重なる。
蕎麦屋と本屋はどちらも均質的な商売だった。
特徴的な蕎麦屋は現れたけど、多くは画一的だった。
本屋は日販とトーハンが出版流通を牛耳っていた。
だから特徴的な品揃えの本屋は特別な努力を強いられた。
このところ残っている蕎麦屋も本屋も、特徴的なお店が多いような気がする。
蕎麦屋は手打ちにするのは当たり前で、蕎麦をわざわざ畑で作ったり、蕎麦前を豊富にしたり。
本屋は何年か前から増えてきた特徴的な出版流通会社を使って個性的な品揃えにしたり、カフェを併設したり、文房具を売ったり、古本も扱ったり、シェア型書店にしたり。
この人本当に蕎麦が好きなんだなという人が蕎麦屋をし、本当に本が好きな人、または戦略的に発信したい人が本屋をやったりしている。
つまり、時代の要請による変化なのではないかと思う。

No.05156 24.02.25 気持ちいいものの進化について考える

生命が進化するとき、「気持ちいい」というのは大きな動機の一つだったのではないか?
きっと他にも動機はあるだろう。
例えば「強いられて仕方なく」とか「それしかしようがなかった」とか。
ここではいろんな動機のうちで「気持ちいい」ことだけに着目する。
「気持ちいい」ことが理由で進化したのは、例えば、「エネルギーを有効に取り込める」とか「子孫をたくさん残せる」とか「生息域を広げられる」とか。
それでいろんな動物がきっと進化したわけだけど、類人猿が人間になることで「気持ちいい」の範囲がきっと広がっただろう。
例えば、チンパンジーはいろんな情報を伝え合っている。
その情報で命が助かったり、食べ物を見つけたりしたら、きっとチンパンジーなりに「気持ちいい」と思うのではないか?
人間は、言葉を発することで物語ることができる。
その物語は、チンパンジーが声や身振りで伝達する以上のデータ量を含むことができる。
その結果、その大量のデータ量によってはじめて得られる気持ち良さがある。
例えばヒーローの物語を聞いたとする。
痛快な物語であればヒーローに共感して気持ちいい。
チンパンジーにはきっとそんなことは無理だろう。
つまり、「気持ちいい」は進化する。
人の心が進化することで「気持ちいいこと」も進化していく。
例えば、人間の心に次の五つの段階があったとする。

1.自分のことにしか興味が持てない段階。
2.仲間のことには興味を持つが、仲間ではないと思った人間には興味のない段階。
3.善と悪に興味を持ち、善だけを守ろうとする段階。
4.善と悪に興味を持ち、善悪を超えて調和を得ようとする段階。
5.善悪を超越してすべての存在が共存できる状態。

それぞれの段階で「気持ちいい」は変化していくはず。
人間の「気持ちいい」は、この進化の過程にあると言って良いだろう。

No.05155 24.02.22 違うことをする

似たものがたくさん集まると、なぜか自然と違うことをするようになる。
それが人間なら、掃除する人、食事を作る人、働きに行って稼ぐ人など、分業がすぐにできるからそうなるのだろうと思えるが、細菌などもそのような傾向があるそうだ。
培地を作りそこで細菌を繁殖させると、活発に動くグループと不活発になるグループができるのだとか。
働きアリはたいてい、働くアリとさぼるアリの割合が一定だという。
働いていたアリだけ集めても、さぼっていたアリだけを集めても、また同じ割合になるのだそうだ。
働いているアリはみんな違うことをしてあっというまに分業が始まり、さぼるアリは休むのが仕事になっているのかもしれない。
似たような単細胞生物が集まりグループを作ると、少しずつ役割が出来てくるのだろうか?
とても単純だと思っていた生物が、実はコミュニケーションの結果、そのようになっていくのだとしたら、それはどのような原理に基づいているのだろうか?
相方と僕は、別々に暮らしていたときには似た人のように思っていたが、一緒に暮らすようになると違いが目立つようになった。
生命はみんなそんな感じなのかな?

No.05154 24.02.21 自由に使える資源を持っている共同体がうまくいく方法

資源が豊富にあったとしても、もしそれらが自由に得られるとなったら、みんなで寄ってたかって取り合いになってしまうのが普通のことだろう。
それで資源が枯渇したり、どこかの団体か個人の所有になり他人は使えなくなったり、取り合いによって問題が発生して殺し合いになったりする。
人間は愚かだ。
でも、頭脳明晰な人はやることが違う。
2009年にノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムは愛称がリンというそうだ。
ここでもそう呼ばせてもらう。
リンはいろんな共同体を調べて、自由に使える資源をもし持っていたらどういうマネージをするべきかを抽出した。
その方法を中核設計原理(core design principales = CDPs)と呼ぶ。

CDP1 強いグループアイデンティティと目的の理解
CDP2 利益とコストの比例的公正
CDP3 全員による公正な意思決定
CDP4 合意された行動の監視
CDP5 段階的な制裁
CDP6 もめごとの迅速で公正な解決
CDP7 局所的な自律性
CDP8 多中心性ガバナンス

これだけの説明で理解できるが、わかりにくいところを説明する。
「CDP5 段階的な制裁」は、もし約束に違反した人がいたとしても、いきなり大きな罰は与えないということ。何度か似たような間違いを犯したら、次第に大きな罰を与えていくとうまくいくそうだ。

「CDP7 局所的な自律性」グループが大きくなり、局所的にグループとみなしても良さそうな規模になったとき、その局所的なグループを一つのグループとみなして独立させたり、自律性を与えたりする。

「CDP8 多中心性ガバナンス」グループが大きくなったとき、地域性や時間枠、参加者の属性などで小グループごとに独自のガバナンスを与える。

こうすると、幾つものグループが生まれ、それぞれに多様性が生まれ、しかも無駄な競争による消費やトラブルの膨張が抑えられるだろう。
いろんな共同体にも当てはめられるような気がする。
何かグループを運営するときに参考にするといいかもしれない。

No.05153 24.02.20 コミュニケーションによる共生

人類はずっと「もう人間は変わらない。進化の究極が人間」と思い込んできた。
ところが、丁寧に観察すると、人間は少しずつでも進歩していることがわかる。
技術的にはこの数十年で飛躍的に進歩した。
ところが、その技術を支える人間の心はどうだろう?
戦争を許容しているという一点で、ほとんど進歩していない、と考えることに賛同してくれる人は多いのではないかと思う。
だけど、心理学は進歩した、スピリチュアルな価値は高まった、しかし、心を病んでいる人は増えているような気がする。
なぜだろうか?
たった一つのことに責任を負わせることは正しくないと思う。
様々な要素の莫大な繰り返しが、些細な問題を増幅しているように感じる。
だとすると、もう人間には手の打ちようがない。
そんなことを考えてしまうのも致し方ないようにも思える。
でも、もし人間が万物の霊長だとしたら、常に自分という存在を超えていかなければならない。
様々な要素の莫大な繰り返しを適切に使うことを人間は覚えたはずだ。
もし適切でないなら、どの部分が適切ではなく、どの部分をさらに伸ばしたらいいのか、考えるべきだ。
日本の国会では議論するのを諦めている。
これは最もしてはならない態度だろう。
では、何を改めたらいいのか?
過去のやり方を手放さなければならない。
手放して、新たなやり方を試していくべき。
どんなやり方を?
まずは多数決を手放し、議論によってシステムの精度を高める方法とそれを進めるための態度を学ばなければならない。
議論するとき、勝ち負けを手放す。
どういうことかというと、勝ったものを推し進め、負けたものは諦めるのではなく、負けたものにも可能性を与え続けることで、一時的には勝った論に席を譲っても、充分に成熟した論であれば再び議論の席に戻れる可能性を残しておく。
そのような考え方が大切になるのではないか?
議論に費やす時間は増えることになるだろう。
大きな権力を握ったものには厄介な考え方だろう。
でも、そのようにしていかない限り、もう人類の存続は難しい状態になってきた。
単純な仕事はみんなロボットやAIに任せて、人間でなければできない仕事に注力できるよう、その基礎を作るべき時が来た。

No.05152 24.02.19 Welcome to complex system

いろんなところで「自分に正直に」と言われるようになってきたけど、「自分に正直であることが難しい」ことに気づかなければならない。
内省してみると自分にはたくさんの立場があることに気づく。
そして、それらの立場たちは、常に同じ意見を持てるようなものではないことが多い。
つまり立場によって自分の意見が分裂させられる。
もしそのことに気付かないと、自分の心の「ある部分」を無視することになる。
例えば、かつてのtwitter、現在のXで、本名がわからないようにペンネームを使っている人は、公では言えない意見を持っていることに気づいている。
だからXではペンネームを使い、自分が誰かを知られないようにしている。
そういう人は、自分の意見が「実際に言いたいこと」と「立場上言わなければならないこと」が分裂していることに気付いている。
心配なのは、そういう分裂を許容できず、何かの立場から言わなければならないことだけが自分の意見だと思い込んでいる人だ。
そういう人が心のバランスを崩すようだ。
自分の内側でいろんな立場からの意見を吟味して、立場ごとに異なることを意識して、できればそれらを言語化するといい。
今はいくつもある立場のどれからも認められる答えは出せないかもしれない。
であれば、立場ごとに違う答えがあることを認めて、それを表現したらいい。
それを繰り返すことで、どの立場からも認められる答えが、いつかは出せるようになるかもしれない。
なぜそのようなことが言えるのか?
多くの人がたくさんの立場を抱えていて、立場ごとに違う答えを持っていることに気づき、そのことが常識のようになれば、立場ごとに違う答えを持っていることはきっと、賞賛されることになるから。
そうなってはじめて許容される答えが生まれるはず。

No.05151 24.02.15 人類が直面しているもの

人間はなぜ言葉を獲得したのか、誰も説明できない。
言葉を獲得する以前の類人猿はなおさら、言葉がどのようなものか理解できない。
人類は言葉を獲得したが、それはなぜだかを説明できていない。
言葉を獲得したことによって、かつてできなかったことができるようになった。
どんなことができるようになったのかは説明できる。
それは、概念を操作できるようになったことだ。
言葉がないと概念は持ちようがない。
「科学」や「愛」、「社会」や「美術」などは言葉がないと概念化できなくなる。
人類がはじめて持った言葉はおそらく自然物を表現したものだったはずだ。
「草」とか「狼」、「空」とか「月」など。
それがいつしか動詞と組み合わされる。
「走る」「作る」「壊す」「叩く」など。
それらの組み合わせが豊富になって文法が形作られるようになったはず。
そうすると原始的な言葉が存在することで、次第に繊細な区別が生まれるようになったはず。
繊細な区別が生まれれば生まれるほど、さらにことばは繊細になることができるようになる。
それと共進化したのが言語を操る脳や、発声のための口の周りの筋肉や、音の調節をする声帯など。
言葉を得るためにはいろんな機能が共進化していったはず。
その結果、概念を持つことがきるようになった。
この共進化は概念が持てるだけでは終わらない。
言葉は声だけにとどまらなくなった。
文字になり、本になり、さまざまな学問が共進化に含まれるようになり、新聞になり、雑誌になり、マスメディアになり、電話になり、スマホになり、共進化の範囲も分野も大きく膨れ上がり、誰も統一的には説明しきれなくなってきた。
いったい僕たち人類は何をしているのか?
類人猿が言葉を使い始めた頃、それが何を意味するのか、誰も理解できなかった。
それと同じに、言葉が拡張した先に何が生まれるのか、今の僕たちが理解できるのは、きっとその序の口にあるものだけだろう。