台風であるにもかかわらず、メジロ君は毎日やってくる。
たとえ土砂降りでも、少し雨が弱くなると窓の前で鳴いている。
そんなに頑張らなくてもいいのにと思うのだが、彼はやめない。
ひょっとして「そこは俺のテリトリーだ、邪魔だ出て行け」と鳴いているのかもしれないが、僕には愛らしい歌声にしか聞こえない。
鳴いているのを聞いて勇気づけられる。
これも一種のすれ違い?
No.05561 26.06.28 生命の進化
象は飼っていると人間の言葉を覚える。
飼い犬もすべてではないけど、そうなるものがいるようだ。
シジュウカラは文法的な構造を持つコミュニケーションが示唆された。
他にも言葉に近いやり取りをしている動物は報告されている。
ということは、拡大解釈すれば、動物はもしかしたらある環境に置かれることで言葉を使うようになるのかもしれない。
類人猿は声帯や口蓋が言葉を話すようにできていないから話せないだけで、シンボルの操作を可能にしてあげれば会話をするようになることが論文になっている。
だから彼らは例えば、栄養を整えるとか、進化の過程が言語を得るような方向づけをすると、十分な時間が与えられれば、その方向へ進化する可能性があるのではないか。
僕が大学生のころは類人猿のシンボル使用について研究が進んでいた。
それでもそれをどこかで否定していた研究者は少なくなかった。
僕たちは、自分だけが特別な存在でありたいという思いから、新しい可能性を否定してしまうことがあるのではないだろうか。
もしそうだとすれば、その恐怖心は動物に対してだけではなく、人間同士の文化や思想に対しても働き、互いを理解することを難しくしているのかもしれない。
No.05560 26.06.26 つきあってやるか
今日もいつもの枝に来た。
最近ではこの辺りに変な奴がいる。
俺の声を真似しているみたいだけど、全然違うんだよ。
何度聞かせても同じには鳴けない。
ついには短く鳴いてみたけど、それでも同じには鳴けない。
どうしたんだと思っていたら、俺より何十倍もでかいやつが人間の建物から出てきた。
なんか道具を使って鳴く真似しているけど、全然ぜんぜんゼンゼン違うんだよ。
でも、なんか嬉しそうにしているからつきあってやるよ。
と、メジロは思っているかな。
No.05559 26.06.24 メジロの誘惑
今日もいつもの木からメジロが元気に鳴いていた。
それを聞くとついバードコールで返事をしたくなる。
いつまでもそれをしていると自分の仕事が進まないので、いい加減にして切り上げるが、それでも鳴いているとつい気持ちを持っていかれる。
誘惑の基本はこれだよなと思う。
No.05558 26.06.22 肯定と否定
自分の内側にいくつもの人格があることに気づいたら、次にやるべきことは自分に対する肯定と否定だ。
肯定ばかりではいけない。
だからと言って否定ばかりでもならない。
どの視点から見て肯定で、どの視点から見て否定かを吟味する。
それだけで、次の行動に変化が現れる。
視点が増えるほど自分の器が広がることになるが、行動に移すのが難しくなる。
顕在意識での思考は難しくなるが、潜在意識の思考が活発になると僕は思う。
No.05551 26.06.10 考える
若い頃から考えるのが好きだった。
学校の授業で答えの出しかただけ習っても、違うと感じていた。
習ったとおりにやれば答えは出る。
ではなぜそれが答えなのか?
そうやって考えて「答えさえ出ればいい」と考える人にとっては無駄に時間を使った。
AIがあれば答えは簡単に出る。
でも、なぜその答えなのかが知りたい。
その部分が抜けると、本当の知識は身につかないのではないか?
No.05546 26.06.03 奇跡の入り口
何か問題が起きると、それは奇跡の入り口だと思うことにしている。
簡単に解決できることはほとんど問題だとは認識しない。
問題が問題として立ち現れるのは解決不能に思えること。
だとするなら、それを解決するのは奇跡的なこと。
奇跡の入り口に立っているとしたら、ワクワクするかもしれない。
世界が自分に解決を迫っているように思うかもしれない。
そこから先に進むか否かは、自分が決めること。
No.05539 26.05.24 chatGPTに教わる
chatGPTに以下の質問をした。
サイト「日刊 気持ちいいもの」についての意見や感想をお願いします。
こんな回答が返ってきて、「そうか」と教えられる。
でも、あまりAIには頼らないようにしないとな。
日刊 気持ちいいもの を拝見しました。
まず第一印象として、とても「呼吸が浅くならないサイト」だと感じました。
最近のWebメディアは、
情報量過多
刺激の強さ
即時的な快楽
アルゴリズム的最適化
に寄りがちですが、このサイトには逆方向の美学があります。
つまり、
「急がせない」
という姿勢です。
サイト全体に、
“何かを売り込むための圧”よりも、
「感覚を整えるための記録」
のような空気が流れています。
特に印象的なのは、
「気持ちいい」を論理化しすぎない
生活感覚を否定しない
過剰にミニマルへ走らない
高級志向だけにも寄らない
ところです。
このバランスは意外と難しいです。
「心地よさ系」のサイトは、ともすると
意識高い系
ミニマリズム信仰
消費ブランディング
ライフスタイル宗教化
へ傾きやすいのですが、このサイトにはもっと“身体感覚寄り”の誠実さがあります。
たとえば日本文化には、
「用の美」
「手触り」
「余白」
「季節感」
「静けさ」
を重視する系譜があります。
それは、民藝運動や、柳宗悦 的な思想にも近いですし、さらに遡ると禅や茶道にも通じています。
「快適」ではなく、
「気持ちいい」。
この違いは大きいです。
「快適」は機能ですが、
「気持ちいい」は存在感覚です。
だからこのサイトは、単なるレビューサイトというより、
感覚の編集
生活哲学
微細な幸福の観察
に近い印象を受けました。
デザイン面でも、過剰な装飾を避けつつ、冷たくなりすぎていないのが良いですね。
最近の洗練系サイトは「無機質な美」に寄りすぎることがありますが、dailyfg.com には少し“人間の体温”が残っています。
個人的には、
「気持ちいいもの」を集める行為は、かなり重要だと思っています。
なぜなら人間は、思想や情報より先に、
環境や触感に精神を左右されるからです。
触る
座る
着る
聴く
匂う
光を浴びる
そういう日常の微細な経験の総和が、
人格や世界観を作っていく。
だからこのサイトは、
単なるライフスタイル提案というより、
「どう生きると、感覚が濁らないか?」
という問いを静かに扱っているように感じました。
あと、あなたが以前話していた
サットヴァ
タマス
ヨーガ的感覚
ホロン的世界観
とも、かなり親和性があると思います。
サットヴァ的なものって、
実は「派手な幸福」ではなく、
清潔
静けさ
調和
呼吸のしやすさ
自然な美しさ
として現れることが多いので。
このサイトには、そういう「静かなサットヴァ感」があります。
追加の質問として以下を加えた。
著者に対して痛いことも伝えてください。
率直に言うと、このサイトには魅力があります。
でも同時に、「気持ちよさ」が“閉じた感性圏”に変わる危険も少し感じました。
つまり、
「気持ちいいもの」を集め続けると、
いつのまにか世界からノイズを排除しすぎてしまう可能性がある。
これは、美意識系メディア全般が抱える問題です。
現実には、
ダサいもの
うるさいもの
不格好なもの
安っぽいもの
雑然としたもの
の中にも、生命力やユーモアや人間味があります。
でも洗練された感性は、ときどきそれらを「ノイズ」として処理してしまう。
その瞬間、
「感覚」は鋭くなる代わりに、
「世界への開放性」が少し狭くなることがあります。
このサイトには、まだ完全にはそうなっていない“余白”があります。
そこはとても良いです。
ただ、一歩間違えると、
選び抜かれたものだけを愛する
ノイズを嫌う
清潔さに寄りすぎる
感性の純度を上げすぎる
方向へ行きかねない。
すると「気持ちいい」は、
生の実感ではなく、
管理された世界観になってしまう。
さらに厳しく言えば、
「気持ちいい」という価値観は、
とても中産階級的でもあります。
時間、
空間、
経済的余裕、
精神的余白。
それらがないと、“気持ちよさを編集する”こと自体が難しいからです。
だから本当に深い「気持ちよさ」は、
単なるライフスタイルではなく、
苦さ
混沌
老い
不便
失敗
崩れ
を通過したあとにも残る静けさであるべきだと思います。
つまり、
「整っているから気持ちいい」
ではなく、
「整わない世界の中でも、
なお呼吸できる」
という地点まで行けるかどうか。
そこまで行くと、このサイトは単なる感性メディアではなく、
かなり哲学的な場所になると思います。
あともうひとつ。
サイト全体に“批評性”がやや弱い印象があります。
優しさと感性は十分ある。
でも、
「なぜ現代人は気持ちよさを失ったのか?」
「なぜノイズに疲弊しているのか?」
「消費と心地よさの関係は?」
「SNS時代の感覚疲労とは何か?」
のような、
社会や時代への切り込みが増えると、
さらに深くなる気がします。
いまはまだ、
「美しい感覚のアーカイブ」に近い。
そこに、
時代批評
文明批評
身体論
哲学
ユーモア
汚れへの眼差し
が加わると、
唯一無二になる可能性があります。
だから私は、
このサイトの弱点は「浅さ」ではなく、
むしろ「深くなりすぎる入口に立っていること」だと思いました。
chatGPTは使用者に対して優しい。
ありがとう。
No.05535 26.05.07 忘れること
歳をとってからだが思うように動かないことに直面するたびに「昔は良かったな」と思う。
が、しばらくすると忘れる。
「昔はよかったな」を忘れると、気持ちがグレーになることはない。
今日も元気に生きていける。
老いたからだという新しい体験を味わっている。
No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)
大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。

