歳をとってからだが思うように動かないことに直面するたびに「昔は良かったな」と思う。
が、しばらくすると忘れる。
「昔はよかったな」を忘れると、気持ちがグレーになることはない。
今日も元気に生きていける。
老いたからだという新しい体験を味わっている。
No.05534 26.05.05 GWのサイクリング
いつものように都内をサイクリング。
いつもより道がすいている。
車が少ない。
GWだから?
ガソリンが高いから?
スイスイと走れてよかった。
No.05533 26.05.04 スズメの水浴び
歩いていたら、目の前の水たまりにスズメが飛んできて、羽を震わせて水浴びを始めた。
一歩踏み出せば踏み潰してしまうような場所で。
人間はそんなことしないとわかっているようだ。
クマやシカもそう思って人里に出てくるのかも。
信頼してもらうのは嬉しいけど、危害は加えないでほしい。
水が跳ねてきたよ。
No.05530 26.04.28 一緒にいる
特に何もしないけれど、一緒にいられるのはいい。
話があるわけではないけど、別のことをしているけど、それでもそばにいる。
時々相手の様子を見たりして。
No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)
大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。
No.05519 26.04.10 桜吹雪に見るもの
桜吹雪が流れると、その美しさにうっとりする。
いろんな思い出が重なる。
どれだけの花見をしただろう?
どれだけの人と一緒に見ただろう?
そのほとんどは忘れてしまった。
その断片が蘇る。
桜吹雪のずっと先に、もう会えない人の姿を見る。
うっとりとする桜色の風の向こうに。
No.05517 26.04.05 龍口明神社にて舞の奉納
2023年に龍口明神社に行った。
西鎌倉駅から歩いて10分ほどのところ。
不思議なことにその場所を夢で見ていたので、道をなんとなく知っていた。
その神社で、ある願い事のために舞を奉納した。
神聖な場で舞われた姿に込み上げてくるものがあった。
No.05516 26.04.03 iPhoneで撮る月夜桜
10年くらい前、満月と夜桜が重なった日があり、デジタル一眼レフと三脚を担いで撮りまくったことがある。
何百枚か撮って、満足できたのは数枚だった。
今宵、満月に夜桜が重なった。
たまたま外を歩いていて、満開の桜の向こうに満月を見た。
一眼レフは持ってなかったが、iPhoneで10年前と似た写真が撮れるか試してみた。
三脚がないので手ブレする。
だけど、iPhoneが補正する。
数枚撮ったら、まずまずのものがあった。
技術革新はすごいな。
No.05514 26.03.29 桜が咲くということ
桜が咲き出した。
毎年のようにそのことについて書いている。
これほど何度も繰り返し書いている素材はないだろう。
何度書いても飽きない。
何度も繰り返し書くということは、僕の内面に何か強い影響を与えているはずだ。
それは一体なんだろう?
答えは一つではないし、それらは複合的に絡まり合っている。
文学にも桜をテーマにした作品がたくさんある。
ということは、僕個人の話ではなく、多くの日本人にも影響を与えているだろう。
外人の中には花見している日本人が見たいという人がいるし、花見に参加して喜んでいる人もいるようだ。
もちろん「満開の桜を見てみたい」という人もいるだろう。
外人がこう思うのは、満開の桜は日本以外ではほとんど見られないからだ。
そんなことを考え合わせていくと、日本人が日本人でいるために、毎年咲く桜が影響しているのではないかと僕は思う。
死生観や色彩感覚、自然との関係、人との関係、言葉の感覚など、多岐にわたる影響があるのではないか?
だとすれば、僕たち日本人が桜に寄せる思いが深くて濃いのは当然のように思われる。
さあ、花見に行こう。
No.05513 26.03.23 観自在で思い出したこと
昨日、ある僧侶の法話を聞いた。
話が観音経の内容になった。
観音経は法華経の一部で、観世音菩薩普門品という。
観音様は翻訳によっては観自在菩薩ともいう。
観音様はこの世界をいろんな見方で見ることのできる菩薩様で観自在といわれる。
だからどんな苦境にいる人も救い出すことができる。
法話では「人間にはなかなか物事の本当の姿を見ることができない。だから同じ本を読んでも読むたびに違う印象になったりする」と説かれていた。
その話を聞いて一晩寝たら面白いことに気づいた。
一年ほど前に思い出せなかった名前を思い出すことができた。
それはケニアにいた象の名で「アジョク(Ajok)」と呼ばれていた。
その象は動物孤児院で会うとすぐに僕の目の前で地面にお腹をさらすように寝そべってしまった。
すると孤児院の職員たちが笑い出した。
聞くと「僕にかまってほしいのだ」という。
「どうやって?」と聞くと、「お腹の上に乗ると喜びますよ」という。
アジョクはすでに僕の背より高い象だった。
体重は数百キロはあるだろう。
そんな象にどう対処しろというのか。
怖くて辞退した。
そのときの僕には「怖い」としか思えなかった。
でもアジョクは日本から来た見知らぬ僕にも心を開く優しい象だったのだろう。
その天使のような象を拒否してしまった。
観自在菩薩の話を聞いて、寝て起きるとアジョクを思い出すとは、人の記憶って不思議だなと思う。

