No.05562 26.07.02 毎日のお勤め

台風であるにもかかわらず、メジロ君は毎日やってくる。
たとえ土砂降りでも、少し雨が弱くなると窓の前で鳴いている。
そんなに頑張らなくてもいいのにと思うのだが、彼はやめない。
ひょっとして「そこは俺のテリトリーだ、邪魔だ出て行け」と鳴いているのかもしれないが、僕には愛らしい歌声にしか聞こえない。
鳴いているのを聞いて勇気づけられる。
これも一種のすれ違い?

No.05561 26.06.28 生命の進化

象は飼っていると人間の言葉を覚える。
飼い犬もすべてではないけど、そうなるものがいるようだ。
シジュウカラは文法的な構造を持つコミュニケーションが示唆された。
他にも言葉に近いやり取りをしている動物は報告されている。
ということは、拡大解釈すれば、動物はもしかしたらある環境に置かれることで言葉を使うようになるのかもしれない。
類人猿は声帯や口蓋が言葉を話すようにできていないから話せないだけで、シンボルの操作を可能にしてあげれば会話をするようになることが論文になっている。
だから彼らは例えば、栄養を整えるとか、進化の過程が言語を得るような方向づけをすると、十分な時間が与えられれば、その方向へ進化する可能性があるのではないか。
僕が大学生のころは類人猿のシンボル使用について研究が進んでいた。
それでもそれをどこかで否定していた研究者は少なくなかった。
僕たちは、自分だけが特別な存在でありたいという思いから、新しい可能性を否定してしまうことがあるのではないだろうか。
もしそうだとすれば、その恐怖心は動物に対してだけではなく、人間同士の文化や思想に対しても働き、互いを理解することを難しくしているのかもしれない。

No.05560 26.06.26 つきあってやるか

今日もいつもの枝に来た。
最近ではこの辺りに変な奴がいる。
俺の声を真似しているみたいだけど、全然違うんだよ。
何度聞かせても同じには鳴けない。
ついには短く鳴いてみたけど、それでも同じには鳴けない。
どうしたんだと思っていたら、俺より何十倍もでかいやつが人間の建物から出てきた。
なんか道具を使って鳴く真似しているけど、全然ぜんぜんゼンゼン違うんだよ。
でも、なんか嬉しそうにしているからつきあってやるよ。
と、メジロは思っているかな。

No.05558 26.06.22 肯定と否定

自分の内側にいくつもの人格があることに気づいたら、次にやるべきことは自分に対する肯定と否定だ。
肯定ばかりではいけない。
だからと言って否定ばかりでもならない。
どの視点から見て肯定で、どの視点から見て否定かを吟味する。
それだけで、次の行動に変化が現れる。
視点が増えるほど自分の器が広がることになるが、行動に移すのが難しくなる。
顕在意識での思考は難しくなるが、潜在意識の思考が活発になると僕は思う。

No.05555 26.06.18 まとめを作る

1999年からこの「日刊 気持ちいいもの」を書き続けてきた。
最初はヒーリング・ライティングのエクササイズを自分でやってみるため。
しかし、何年もやっているうちに軸が別のものになっていった。
その軸は非二元論のように解説が難しい。
軸があるようでないような状態。
この曖昧さを言語化するのにAIを使ってみようか。
全5555回の文章を読み込ませて、そこからいったい何を見つけてくるのか考えてもらう。
人間がやったら膨大な作業量だが、AIがやるとどうなるのか?
その前に、全文章をAIに読ませるのが大変だ。
一つの文章に1分かかるとしたら、不眠不休で約3日と19時間になる。
一つの文章に10秒という非現実的な速度でも15時間半。
現実的ではないな。
でもやってみたい。

No.05554 26.06.13 世界平和を祈る

人は以前より高度な知恵を持つたびに争わざるを得なくなるようだ。
古事記、日本書紀以前の歴史が露わになりつつある。
しかし、そのような文献はたいてい偽書とされる。
偽書扱いにすることでその研究さえも封印される。
真偽について僕は深く研究していないが、バリ島に何度か通ったことである気づきを得た。
それは、統一された神道は古事記以前にはなかったのだろうということ。
バリ島には各地に王族がいる。
それらの王族は似てはいるが別の宗教体系を持っていて、互いにそれがどのようなものかを秘密にしている。
これは宗教の発生を考えるときに、そうなるだろうなという予測がある程度つく。
日本も土地ごとにいろんな神様がいて、その神様がどんなことをしたかという伝承は、距離が離れれば離れるほどさまざまなものになっただろう。
だからこそ日本書紀では似た話のいろんなバージョンが収められている。
地域によってはあまりにも独特で、日本書紀に収められなかったものも多数あっただろう。
それらを古事記で統一し、ある時からそれ以外の話は認めなくなった。
そういうことだと僕は理解している。
人間は次第に生息域を広げる際に、もともとあった文化同士がぶつかり合い、どちらを採用するかで争うことになる。
平和に融合し、文化が高度化していけばいいのだが、そうならないことが度々起こってきたようだ。
そのようなとき、どのように互いの文化を融合させるかについての知恵が、あちこちで生まれただろう。
それは世界的な知恵のネットワークがなかった時代ではいろんなものになる。
そこで、平和的融合や、武力による制圧が生まれた。
その表面上のことを僕たちは歴史で学ぶ。
しかし、その時代に生きていた人たちにとって、そこで学ぶこと、または強いられることは、その時代、その地域の文化を作る上で大きなことであり、その結果生み出された遺物や文書は現代にも残されれば得ることができるが、形に残されなかった口伝のようなものは推測に頼るしかない。
非二元論という明確に言語化できない知恵について追いかけているのは、きっとどこかで平和についての隠された知恵について触れることができるのではないかという期待からである。
しかし、それは表面上、まったく別々の表現になっているため、統一された思想体系のようには思われない。
その骨組みがやっと分かったが、それを他人に説明するのが難しい。
四苦八苦している。
chatGPTを相手に対話を重ねている。
以前より考察の広がりが早くなった気がするが、chatGPTは滅多に相手を否定しないので、上手い話ばかりが集まってきているようで、自分で考えたほうがいい方向性が探せるのかもしれない。
そんな試行錯誤を繰り返している。
これは僕の世界平和への祈りの形なんだなと思う。

No.05553 26.06.12 心が震える言葉にできないこと

五年前、退院して以来、体調が安定しない。
五年も経つのに!
いまだに血圧が上で80ないことがよくある。
100ないと僕にとっては動くのが大変。
その状態で無理に気合いで動くと、あとで動けなくなるので無理はしないようになった。
でも、このことが僕に考える時間を与えてくれる。
このところ朝に特に血圧が低いから文章が書けず、夜に気持ちいいものを書くようになった。
すると、書きながらよく眠ってしまう。
それで発行が真夜中になったり、書けなかったことが何度もある。
でも、そのおかげか、無意識の部分に何らかのインパクトがある気がする。
それが何だとは上手く言えない。
顕在意識ではわからない。
でも、なんかあるような気がする。
このモヤモヤについて書く。
ひとつに もしかしたら、自分の立場を肯定するためにこんなことを考えているのかもしれない。
病気になってまともに仕事ができない、この自分を肯定するために。
その可能性は充分あるし、それを知った上でこのあとの話は書いていく。
退院して以来、眠いときに起きていられなくなった。
以前は五分瞑想すれば、意識ははっきりした。
そんなことを続けたから体調を崩したのかもしれない。
だから、瞑想するとつい眠ってしまうことが恨めしかった。
気持ちいいものを書こうとして眠ってしまうたびに恨めしい。
これは心にはよくないこと。
それは知識としては知っている。
しかし、感情は生まれてくる。
感情を抑えることはできる。
でもね、と思う。
まあいい。
何度も夜に書こうとして書けずに眠ってしまい、恨めしく思って布団に入った。
朝まで無理すると、翌日何もできなくなる。
こんなことを続けながら非二元論について考えを巡らせる。
非二元論について「なるほど」と思ったのは何度もあるが、思い返せば入院の前後からはっきりとしてきたような気がする。
はっきりとはしたが、非二元論を理解するというのは無限と対峙することでもあり、人間の頭では処理しきれない。
それを説明しようとするから元々無理なのだ。
その無理を超越しようとしている。
昔、中村公隆和尚に「声字実相義を読め」と言われた。
はじめて読んだときには「ソシュールと似たことが書かれているな」と思ったが、あちこちでそれとは反することも書かれていた。
だから何と理解してよいかわからなかった。
それ以来、仏典を読む率が高くなった。
あちこちで矛盾している話を理解するのではなく、呑み込んでいった。
あっちにもこっちにも矛盾だらけである。
ちっとも科学的ではない。
だから理解するのではなく、とにかく呑み込む。
「へーそうなんだ」みたいに。
しかし、時間が経つと、「へーそうなんだ」ではなく、「そうだよね」になり、矛盾に感じていたことがどこかわかる気になってきて、あるとき一本の線としてつながり、それが平面をなし、立体になり、立体曼荼羅となり、多次元を空想するようになった。
この多次元の空想が、非二元論の入り口になる。
それに気づくとパズルはガチっと組み上がった。
だけど、すべてを理解はしていないことも理解できた。
この部分は言葉にしようがない。
どこにも存在しない、空想の中にのみ生まれ出るものだった。
今度それを説明しようとする。
それで気づくことがある。
その気づきは、顕在意識だけのものではない。
巡り巡って「そうか」と思うことが生まれる。
その「そうか」は言語化できないので、何度も忘れた。
忘れてはしばらくして思い出す。
それの繰り返し。
それを繰り返すことではっきりしたことがある。
夜に机に向かって眠ってしまい、夢の中でそれに触れ、その出来事を忘れて恨めしく思う。
その繰り返し。
昨日「日刊 気持ちいいもの」を二回発行した。
一度目は「No.05551 26.06.10 考える」。
これは一昨日の夜、机に向かって考えて、一度眠って、目が覚めて書いた。
書きあげたのが午前三時を過ぎていたので、メルマガで配信したのは翌日の昼過ぎだった。
「こりゃいかん」と思い、その日にもう一度、昨日の分の気持ちいいものを夕飯前に書いて送った。
「今夜は早く寝られる」と思い、午後10時には布団に入った。
ところが、午前2時に目が覚めてしまった。
トイレに行ってから机に向かう。
「なんで机に向かうんだ?」と思ってからふと気づくと午前5時。
空が明るくなり始めていた。
あわてて布団に入った。
そこでじんわりと感じる。
今まで出会ってきたことや人への感謝の念。
そして、これが天命だったのかという思い。
朝にいつも来てくれるメジロが鳴き出した。

No.05551 26.06.10 考える

若い頃から考えるのが好きだった。
学校の授業で答えの出しかただけ習っても、違うと感じていた。
習ったとおりにやれば答えは出る。
ではなぜそれが答えなのか?
そうやって考えて「答えさえ出ればいい」と考える人にとっては無駄に時間を使った。
AIがあれば答えは簡単に出る。
でも、なぜその答えなのかが知りたい。
その部分が抜けると、本当の知識は身につかないのではないか?

No.05550 26.06.07 本を読む

いろんなことを学ぶのに本を読む。
するとときどきよくわからない話に直面することがある。
本当に訳のわからない話しであれば、二度と読まないかもしれないが、良い本は一度では解読できず、二度三度と読んで理解できることがある。
その結果はじめて新しい考え方やものの見方を手に入れる。
でも、ネット上の文章やAIが出してくる文章には、そのような質の文章に滅多に会わない。
どれもすっと頭に入って来る簡単な文章か、下手な文章だ。
ということは、ネット上の文章やAIが出してくる文章では、新たな考え方を手に入れる機会が少ないということかもしれない。
でなければ、僕がネット上の理解しにくい文章を下手な文章と決めつけているのだろうか。
話は変わるが、今までの本は必ず編集者の目に触れ、変な文章は削除されていただろうが、これからはそれが変わるかもしれない。
読者の興味が一層多様化して多品種少量出版が増えると、結果として編集者の手間が省かれがちになるから。

No.05547 26.06.04 非二元論

非二元論についていつか知りたいと思ってきた。
その概要について理解したと思うので、「ヌースフィアってなに?」にその内容を少しずつ伝えていく。
でも、かつての聖者たちがみんな「表現不可能」とした考えを表現していくのは無謀なことである。
でも、それを言葉に、映像にしていく。
理解してもらえるかな?
理解できたら非二元論ではないのだよな。
未熟な考えをさらしていくことになるのかも。
でもそれをしてみたい。
ここまで来るのに30年以上かかったんだ。

i_n_f_o_r_m_a_t_i_o_n___________

「ヌースフィアってなに? 第17回」を
YouTubeにアップしました。
今回のテーマは
「非二元論を学ぶ1」です。
https://youtu.be/iS8cOdy6NtM