思い出すとはどういうことだろうか?
思い出すのは一瞬で、全体を感じる。
そのあとで説明のために細かい部分を言葉にしていく。
ところが、説明に時間がかかる。
だから思い出すことにも時間がかかっているように感じてしまう。
何度も思い出を文章にしていて気づいたのは、僕の場合、思い出すのは一瞬ということ。
この一瞬で思い出の全体像を得ている。
そののちに細かいことをポロポロと知覚していく。
その細かいことは、前提があってはじめて思い出す。
たとえば、昨日書いた不思議な体験のことをマルッと思い出す。
そののちに「バリ島で一緒にいた女性の名は?」と問われれば、思い出すことができる。
だけど、バリ島での思い出と紐づいてない状態でその日の日付を言われて、「その日に一緒にいた女性の名は?」と問われても、いったい誰のことやらさっぱりわからない。
つまり思い出は、箱のような仕切りで仕切られている気がする。
箱が明確になると、中身もはっきりする。
その箱は、不思議な箱で、多次元の形を持つ。
たとえば、「バリ島での鳥の思い出」と言われると、昨日の話のほかに、別のときに体験したことも思い出す。
「バリ島での」を抜いて「鳥の思い出」と言われれば、もっとたくさんのことを思い出す。
だけどいきなり「どんな思い出がありますか?」と問われたら、「バリ島での鳥の思い出」に含まれることを思い出さないかもしれない。
つまり思い出は、集合の帰属と包含のような簡単な関係ではない。
だからそれを普通の箱のように思うと、それは違う。
ある一面から見ると箱のようであり、別の面から見るとネットワークのようである。
だから、不思議で多次元な箱だと思う。