ラフカディオ・ハーン、小泉八雲のエッセイを読んでいる。
「新編 日本の面影」は「知られぬ日本の面影」からの抜粋とのこと。
日本に来日してからの二年間が綴られている。
読んでいると切なく感じる。
この切ない感じはなんだろうと探ると、バリ島に行ったときのことを思い出した。
学生の頃、ガムランのCDを聞いてゾッとしたこと。
そののちに観光して、バリの人たちの暮らしも見てみたいと思ったこと。
かつて日本の正月三が日は異様なほど静かだったが、それと同じようなニュピという祭があり、それにどうしても行きたくなったこと。
それから数年して、ゾッとしたガムランの演奏をしていた一族のお宅にホームステイすることになったこと。
実際に行って感じたことなどが、ハーンの日本紀行から立ち上ってくる。
結局、江戸末期の日本の、そしてアジアの魂に触れたいんだなと思う。
でも、もうどこに行ってもそれは薄れてしまったのだろう。
それを求めて日々さまよっている。
No.05531 26.04.30 維摩経
サンスクリットから訳された維摩経を読んだ。
菩薩や仏弟子たちの情けない話から始まる。
このお経の主人公である維摩が病気になったから見舞いに行ってやれとお釈迦様がいう。
しかし、誰も行きたがらない。
維摩は在家信者だが、出家した菩薩や仏弟子たちより知恵が優れていて論争になるとついやりこめてしまうので誰も近づきたがらない。
そこで知恵が秀でた文殊菩薩がお見舞いに行くことになった。
すると、維摩と文殊菩薩の話が聴きたいとたくさんの菩薩や仏弟子たちが集まってくる。
維摩はそれを見越してたくさんの人が入れるように家を空っぽにしておく。
維摩は不二の法門についてたずねると集まった菩薩たちがそれに答えていく。
いろんな答えがあり、不二の法門とはいったい何かがいよいよわからなくなっていくが、それに対して文殊菩薩がいう。
「善き人たちよ、あなたたちはすべて、巧みに語った。しかしながら、あなたたちが〔言葉で〕解いた限りでは、そのすべてが、二元的に対立するものです。一つの説法でさえもやめて、あらゆるものごと(一切法)について詳述することもなく、解説することもないこと、〔また〕発言もなく、陳述もなく、言説もなく、〔概念を仮に〕設けて言うこともない、これが、不二の法門に入ることです」
サンスクリット版全訳現代語訳 維摩経 植木雅俊訳 より
維摩に「あなたの教えを説いてください」と文殊菩薩がいうと、維摩は何も言わない。すると文殊菩薩が「素晴らしい、これが不二の法門に入ることだ」と宣言した。
これは非二元論の一部だとわかるが、その先でさらに話が難しくなっていく。
何度も読み直すことになりそうだ。
No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)
大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。
No.05522 26.04.15 イーハトーブの夢
宮沢賢治は心象風景の場所イーハトーブを作り出した。
のちにいろんなものの名前となっている。
テレビ番組
高速バス
競馬大会
岩手銀行のインターネット支店
大瀧詠一の変名「イーハトーブ田五三九」など。
宮沢賢治はどう思っているだろうか?
喜んでいるだろうか?
「俺の心象風景を勝手に使うな」と怒っているだろうか?
デクノボーと呼ばれたかったのだから、きっと笑っているだろう。
No.05495 26.02.01 電子書籍
歳をとって視力が落ちる日がある。
そういうときに昔の文庫本のような小さな文字を読むのが辛い。
ルーペを使ったり、スマホで拡大したりして読む。
でも電子書籍だと文字の拡大が簡単なので、電子書籍の率が増えてきた。
持ち運ぶのにも楽だしね。
数十冊をポケットに入れられルンルン。
No.05488 26.01.09 ブックカフェ
人と待ち合わせをするのに、ブックカフェはとても都合がいい。
コーヒーを飲みながら待ちたいなと思えばそれが可能だし、コーヒーは飲みたくないと思ったら、本を見て選んでいればいい。
つまり有料で待つことも、無料で待つこともできる。
でも、いつも無料で一方的に利用していたらお店は成り立たなくなってしまうだろうから、コーヒーを飲むか本を買うかはしたいよね。
無理にそうする必要はないだろうけど、経営は大変そうだな。
No.05479 25.12.15 初心
「初心忘るべからず」とはよく聞くが、自分の初心とはどのようなものか、考えてみるとあまり言葉にならない。
そもそも初心とは何か?
きっと人によって千差万別だろう。
農夫の、漁師の、芸術家の、サラリーマンの、AI技術者の、商売人の、銀行家の初心が皆同じとは考えにくい。
つまり、初心はみんな違う。
にもかかわらず、「初心」と聞くとわかった気になってしまう。
言葉って不思議だなと思う。
さらに調べると驚くことに気づいた。
「初心忘るべからず」という言葉は、世阿弥の「花鏡」という能芸論書に出てくるのだが、「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」とあり、「初心」に「物事を始めた頃の新鮮で謙虚な気持ちや、未熟だった頃の志を忘れてはいけない」という意味以上の意味を加えています。
日本の文化には「言葉以上の何ものかを汲み取る意思」があるように感じますが、「花鏡」の奥の段に登場するこの言葉は、深くそれを思わせてくれる話になっています。
No.05425 25.09.05 スーフィーの物語
昨日の気持ちいいものを書いて、久しぶりに「スーフィーの物語」を読みたくなった。
いろんな精神的な教えとなる物語が書かれている。
多視点の価値を伝えるものもあり、ときどき読み返したくなる。
でも、アッタールの「鳥の言葉」を買ったまま積読状態だよなとも思う。
No.05407 25.07.22 不快の正体
「トランプvsディープステート最後の死闘」という本を読んだ。
著者は元ウクライナ兼モルドバ大使を務めた馬渕睦夫氏。
ディープステートの話をすると、嫌がる人がいる。
多くの場合「陰謀論は信じない」という話になるが、本当は違うのではないか?
資本主義で育ってきた僕たちは、ディープステートの気持ちがわかる。
勝てればいいというその視点。
敗残者について考える必要はないというその傲慢。
隠された心が疼く。
No.05398 25.07.01 理会する
小学一年生が習うはずだったことをいま学び直している。
小学一年生が習うことなんてとても簡単で学び直す必要なんてないと普通は思うだろうが、明治11年生まれの教育者、垣内松三の本によると、理会することを前提に小学一年から教えないとならないという。
「理会する」とはどういうことか。
「理解する」より深い内容を読み取っていくことをいう。
例えば文体や使っている単語から、作者が何を表現したいのかを読み取る。
さらに作品に登場する人たちが、どんな社会的背景を持ち、どんな暮らしをし、どんな境遇にいるのかを読み取る。
その上で、文章に潜む核心を掴んでいくというのだ。
そのようなことができるように初学者(小学一年生)から教えていかなければならないという。
戦前の教育者は、日本語の深い意味を汲み取れる人になるように、初学者から導いていくように、それができる人にどうしたらなれるかを学んでいた。
かつての日本語教育の質の高さを実感する。

