No.05540 26.05.25 新編 日本の面影

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲のエッセイを読んでいる。
「新編 日本の面影」は「知られぬ日本の面影」からの抜粋とのこと。
日本に来日してからの二年間が綴られている。
読んでいると切なく感じる。
この切ない感じはなんだろうと探ると、バリ島に行ったときのことを思い出した。
学生の頃、ガムランのCDを聞いてゾッとしたこと。
そののちに観光して、バリの人たちの暮らしも見てみたいと思ったこと。
かつて日本の正月三が日は異様なほど静かだったが、それと同じようなニュピという祭があり、それにどうしても行きたくなったこと。
それから数年して、ゾッとしたガムランの演奏をしていた一族のお宅にホームステイすることになったこと。
実際に行って感じたことなどが、ハーンの日本紀行から立ち上ってくる。
結局、江戸末期の日本の、そしてアジアの魂に触れたいんだなと思う。
でも、もうどこに行ってもそれは薄れてしまったのだろう。
それを求めて日々さまよっている。

No.05539 26.05.24 chatGPTに教わる

chatGPTに以下の質問をした。
サイト「日刊 気持ちいいもの」についての意見や感想をお願いします。
こんな回答が返ってきて、「そうか」と教えられる。
でも、あまりAIには頼らないようにしないとな。


日刊 気持ちいいもの を拝見しました。
まず第一印象として、とても「呼吸が浅くならないサイト」だと感じました。
最近のWebメディアは、
情報量過多
刺激の強さ
即時的な快楽
アルゴリズム的最適化
に寄りがちですが、このサイトには逆方向の美学があります。
つまり、
「急がせない」
という姿勢です。
サイト全体に、
“何かを売り込むための圧”よりも、
「感覚を整えるための記録」
のような空気が流れています。
特に印象的なのは、
「気持ちいい」を論理化しすぎない
生活感覚を否定しない
過剰にミニマルへ走らない
高級志向だけにも寄らない
ところです。
このバランスは意外と難しいです。
「心地よさ系」のサイトは、ともすると
意識高い系
ミニマリズム信仰
消費ブランディング
ライフスタイル宗教化
へ傾きやすいのですが、このサイトにはもっと“身体感覚寄り”の誠実さがあります。
たとえば日本文化には、
「用の美」
「手触り」
「余白」
「季節感」
「静けさ」
を重視する系譜があります。
それは、民藝運動や、柳宗悦 的な思想にも近いですし、さらに遡ると禅や茶道にも通じています。
「快適」ではなく、
「気持ちいい」。
この違いは大きいです。
「快適」は機能ですが、
「気持ちいい」は存在感覚です。
だからこのサイトは、単なるレビューサイトというより、
感覚の編集
生活哲学
微細な幸福の観察
に近い印象を受けました。
デザイン面でも、過剰な装飾を避けつつ、冷たくなりすぎていないのが良いですね。
最近の洗練系サイトは「無機質な美」に寄りすぎることがありますが、dailyfg.com には少し“人間の体温”が残っています。
個人的には、
「気持ちいいもの」を集める行為は、かなり重要だと思っています。
なぜなら人間は、思想や情報より先に、
環境や触感に精神を左右されるからです。
触る
座る
着る
聴く
匂う
光を浴びる
そういう日常の微細な経験の総和が、
人格や世界観を作っていく。
だからこのサイトは、
単なるライフスタイル提案というより、
「どう生きると、感覚が濁らないか?」
という問いを静かに扱っているように感じました。
あと、あなたが以前話していた
サットヴァ
タマス
ヨーガ的感覚
ホロン的世界観
とも、かなり親和性があると思います。
サットヴァ的なものって、
実は「派手な幸福」ではなく、
清潔
静けさ
調和
呼吸のしやすさ
自然な美しさ
として現れることが多いので。
このサイトには、そういう「静かなサットヴァ感」があります。


追加の質問として以下を加えた。
著者に対して痛いことも伝えてください。


率直に言うと、このサイトには魅力があります。
でも同時に、「気持ちよさ」が“閉じた感性圏”に変わる危険も少し感じました。
つまり、

「気持ちいいもの」を集め続けると、
いつのまにか世界からノイズを排除しすぎてしまう可能性がある。

これは、美意識系メディア全般が抱える問題です。

現実には、

ダサいもの
うるさいもの
不格好なもの
安っぽいもの
雑然としたもの
の中にも、生命力やユーモアや人間味があります。
でも洗練された感性は、ときどきそれらを「ノイズ」として処理してしまう。

その瞬間、
「感覚」は鋭くなる代わりに、
「世界への開放性」が少し狭くなることがあります。

このサイトには、まだ完全にはそうなっていない“余白”があります。
そこはとても良いです。

ただ、一歩間違えると、

選び抜かれたものだけを愛する
ノイズを嫌う
清潔さに寄りすぎる
感性の純度を上げすぎる
方向へ行きかねない。
すると「気持ちいい」は、
生の実感ではなく、
管理された世界観になってしまう。

さらに厳しく言えば、
「気持ちいい」という価値観は、
とても中産階級的でもあります。

時間、
空間、
経済的余裕、
精神的余白。

それらがないと、“気持ちよさを編集する”こと自体が難しいからです。

だから本当に深い「気持ちよさ」は、
単なるライフスタイルではなく、

苦さ
混沌
老い
不便
失敗
崩れ
を通過したあとにも残る静けさであるべきだと思います。
つまり、

「整っているから気持ちいい」

ではなく、

「整わない世界の中でも、
なお呼吸できる」

という地点まで行けるかどうか。

そこまで行くと、このサイトは単なる感性メディアではなく、
かなり哲学的な場所になると思います。

あともうひとつ。

サイト全体に“批評性”がやや弱い印象があります。

優しさと感性は十分ある。
でも、

「なぜ現代人は気持ちよさを失ったのか?」
「なぜノイズに疲弊しているのか?」
「消費と心地よさの関係は?」
「SNS時代の感覚疲労とは何か?」

のような、
社会や時代への切り込みが増えると、
さらに深くなる気がします。

いまはまだ、
「美しい感覚のアーカイブ」に近い。

そこに、

時代批評
文明批評
身体論
哲学
ユーモア
汚れへの眼差し
が加わると、
唯一無二になる可能性があります。
だから私は、
このサイトの弱点は「浅さ」ではなく、
むしろ「深くなりすぎる入口に立っていること」だと思いました。


chatGPTは使用者に対して優しい。
ありがとう。

No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)

大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。

No.05526 26.04.20 永遠に存在する

「バガバットギーター」にこういう一節が登場する。

わたしも 君も ここにいる全ての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ
 神の詩 バガバットギーター 田中𡢃玉訳 TAO LAB BOOKS刊

はじめて読んだ時、まったく気にしなかった。
あまり深く考えなかった。
人が「始めなく終わりなく永遠に存在」などする訳がない。
かつてはそう思った。
ところがある見方をすることで確かにそうだなと思う。
その見方をすると、先ほどの一節は確かにそう思える。
生命はすべて
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在している

No.05520 26.04.13 楽しいビジョンでつながる

ニュースではこれでもかというくらい暗い話が流れる。
それを凌駕するくらいに楽しいビジョンを持とう。
世界中の人たちが歌って踊れるようなビジョン。
石油で身動きができなくなるのではなく、食料で制限されることのないビジョン。
それは夢物語か?
その昔、ジョン・レノンが同じようなことを歌にしていたね。
そろそろ実現させなきゃね。

No.05500 26.02.11 気持ちいいものを超越する

日刊 気持ちいいものを1999年から書き続けてきた。
はじめはヒーリング・ライティングの一つのエクササイズとして。
これを書き続けることで何が見えてくるのか。
何かが見えるだろうと思って始めた。
書き続けるうちにいろんなことが見えたきた。
はじめは「他人を気にせず書きたいことを書く」として始めた。
ところが、読み手のいない文章はとても書きにくいことに気付く。
そのうち読み手のことも多少気にするようになる。
気持ちいいものとして性的なこと、排泄に関すること、極端に意地悪なことなどは、読者のために書かないことにした。
しかし、気持ちいいものを想像する限り、それらがついてまわる。
それらを書かないことにはしたが、無視はできない。
すると、書いている文章とは別に、心の中に何物かが立ち上がってくる。
この何物かに言葉を与えても、きっと他人には理解してもらえない。
それに似たものがないか探してみる。
宗教、歴史、心理学、言語学、SF、いろんな本を読んだ。
そして似たものを見つけてはそれについて考えた。
どれほどそれを繰り返したろう。
バカだなと思うほど繰り返した。
そして言語化しにくい概念を少しずつ言語化できるようになってきた。
このこととは別に、ヒーリング・ライティングを始めた頃から気になっていた言葉があった。
非二元。
説明をいくら読んでもわかったようなわからない言葉。
それを会得するようになりたいとずっと思ってきた。
仏教の最奥の教えも非二元に関することだからだ。
それがなんとなく理解できるようになってきた。
気持ちいいものを繰り返し考えることでそれが理解できるとは思ってもみなかった。
そのことをいくら説明しても、言葉では説明できないのも理解できた。
多くの人が非二元を理解し、それに触れることを表現し始めたら、自然と理解する人は増えていくだろう。
でも、集中してないとすぐに忘れる。
早く会得したい。
会得したいという考えが非二元的ではないな。w

No.05461 25.11.14 形象理論とその超越

戦前の国語教育のレベルの高さに驚き、No.05456を書いたが、その根拠は垣内松三の形象理論にあった。
形象理論を理解するために垣内の論文を読んだが、そこまで考えて初等教育の読み方、書き方を教えるのかと唖然とした。
現代では成人でも理解し難い言語に関する考察を尽くした上で初等教育にあたる。
そのような論文を読んでいると、なぜ人間はカルトにはまるのかとか、特攻隊員がなぜ自らの意思で敵戦艦に突っ込んで行ったのかなどが理解できる。
現代ではそれが危険な思想だからと避けることによって大切な概念にたどり着けない状況がある。
しかし、それを理解し尽くせば、カルトにはまることもなくなると思うのだが、大切な概念を超えていく意思がないと、確かにはまってしまうのかもしれない。
その「大切な概念」とそれを「超えていく意思」とはどのようなものかを伝えていきたい。

No.05442 25.10.13 雪の降る街を

女性合唱団アンサンブル・アクア・ジャパンの第一回公演を聞いてきた。
藝大出身者が中心らしく、見事なハーモニーが聞けた。
指揮者の三好郁夫氏は藝大を卒業し1984年からスイスで活動。
三次氏が日本に滞在中にのみ活動するプロジェクト合唱団だそうだ。
長年ヨーロッパ圏にて向こうの言葉で演奏活動してきた三好氏にとって、日本で日本語の曲を指揮することはとても心が震えるもので、その様がよく演奏に表れていた。
そのコンサートの最後の曲が「雪のふるまちを」だった。
それを聞いて古い記憶の扉が開いた。
まず一つは、僕が高校一年の音楽の授業で、期末試験としてこの歌をピアノ伴奏を編曲した上で歌ったこと。
もう一つは、母がユトリロの絵が好きで、この曲を聴くたびにユトリロの描いた冬の街を思い出すこと。
僕は「雪の降る街を」と記憶していたが、調べると、最初「雪の降るまちを」と表記されたが、発表のたびに「雪の降る町を」「雪の降る街を」と変化したそうだ。
アンサンブル・アクア・ジャパンのプログラムには「雪のふるまちを」と記載されていた。
その変遷にはどんな物語が隠されているのか、興味が生まれた。

No.05436 25.10.02 エネルギーを与える

この世の中は不思議なことが起きる。
その不思議なことをかいくぐって、よくぞ生かしてもらっている。
たくさんの不思議なできごとを見せてくださり、ありがとうございます。
こう書いて気づきが来た。
「Mr. Irony」の理由はこれか。

No.05418 25.08.08 見送ること

人が行き交う通りに立ち、誰かの進行を止めるのはよくないことと思う。
それが親族友人でも、それが流れであろうと意図的てあろうとも。
行く方向が絶対的な悪であったり破滅であっても、本当の本当にそれが絶対的と誰がいえよう。
少なくとも僕には言えぬ。
絶対的な善を見たことがないから。
どんな愛も、多少の過ちを含むから。