No.05033 23.07.30 寝る

これほど気持ちいいことはない。
特に一昨年末の入院以来、起きて動くことが少々辛い。
なのに運動しないと体力は如実に衰えるので、せっせと自転車で走っている。
でも、本当は寝ていたい。
この暑さで長い時間自転車では走っていられない。
ふて寝する。
時には気絶するように寝る。

No.05032 23.07.26 21世紀の資本

遅ればせながらトマ・ピケティの「21世紀の資本」映画版を見た。
とてもわかりやすくまとまっている。
このままの資本主義を続けていくとどのように問題になるのかが浮き彫りにされていた。
本の日本語訳が出版されたのが2014年の12月で、騒ぎになったのは2015年だったのだろうけど、今こそ見直すべき内容だと思う。
再分配の不平等が行き詰まると戦争が始まるという轍をまた踏むのだろうか?

No.05031 23.07.25 生と再生

一週間ほど前に宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見た。
とても面白かったが、あの映画で何を伝えたかったのか、はっきりとはわからなかった。
ところが今朝起きたら、「あれは『生と再生』だ」と思った。
それはミルチャ・エリアーデの著書。
副題が「イニシエーションの宗教的意義」。
「君たちはどう生きるか」というタイトルからもわかるが、この作品は成人儀礼に関するニュアンスが含まれている。
つまり「大人になるとはどういうことか」を伝えている。
だけど、かつての古めかしい価値観を伝えるようなことを宮崎駿はしない。
しかも、成人儀礼を突き抜けて、超自然者への参入を促すイニシエーションにも思える。
成人儀礼は一般的な社会観、道徳感、宗教観、性道徳などを授けるが、超自然者への参入では、その修練を受ける準備としておこなわれる。
色々と説明すると長くなるので、『生と再生』のなかで、なぜこれが宮崎駿の「君たちはどう生きるか」とつながるのかを説明していると感じる部分を引用する。

以前にも述べたように、加入礼は正しく人生の核に横たわっている。そして二つの理由から、この見方は正しい。第一は、正しい人生とは、深刻な危機、責苦、苦悩、自我の喪失と再確立、死と復活を含意するからである。第二の理由は、ある程度仕事を成就したにしても、ある時点では万人がその人生を失敗と見るという点である。この幻想はその人の過去に対してなされる倫理的判断からではなくて、その召命(天職)をとりにがしたとの漠然たる感情からおこるのである。 つまり、その人は自らのうちにある最善なるものを裏切ったという感情である。こうした全面的な危機の時点で、ただひとつの希望、人生をもう一度始めからやり直すという希望だけが、ある成果をもたらすように思われる。要するに、このことは、こうした危機に見舞われている人は、新しい、再生された生活を充分に実現し意義あるものにしようとの夢を持つことなのである。それは宇宙が更新されるように、万人の魂が季節的にみずから更新されるといった漠然たる希求以外のもの、それを遥かに超えるものである。こうした八方塞がりの危機に際する希求や夢は決定的で、全体的なレノバティオ(renovatio)=生命の変革できる更新を獲得することである。
M.エリアーデ 堀一郎訳 『生と再生-イニシエーションの宗教的意義』 東京大学出版会刊

現在の子供が成人したとき、どんな職業が存在するのかよくわからない社会で生き延びるためには、あのアニメに含まれていたような感覚が必要となるのだろう。

No.05030 23.07.23 スローモーション

水が跳ねる瞬間とか、ものすごく動きが早いもののスローモーションを見るのは楽しい。
目では追うことができないような変化を丁寧に見ることができる。
世の中は効率化が大事だとされるが、思いっきり丁寧にゆっくりとやったら、それはそれで楽しいのではないだろうか?
コミュニケーションも、効率化をめざして途中を飛ばすようなのはAIにまかせて、ゆっくりと丁寧にやりとりすることで、今までにない何かを生み出すような部分を人間が務めればいいのではないだろうか?
難しい課題を丁寧にやりとりすれば、無理に戦争なんかしなくてもよくなるのではないだろうか?
なにごとも慌てるのはよくない。

No.05029 23.07.21 君たちはどう生きるか

宮崎駿の最新作。
面白かった。
見事だと思った。
説明のつかない場面がたくさん出てくるが、それがいい。
ああかこうかといろんなことを考えさせてもらった。
それは自分の心や気持ちに関すること。
今までの作品にも説明のつかない何かはよく出てきたが、そういうもののてんこ盛り。
それでも満足させてしまうというマジックがある。
寝て見る夢は説明のつかないもの。
でも、朝起きると爽快だったりする。
そういう感覚を与えてもらった。

No.05028 23.07.20 ドーナツの穴

最近の報道はキシキシいっている。
現実と虚構が馴染んでいない。
報道に多少の虚構が入るのは、ある程度仕方ない。
事実をすべて理解できる訳ではないから。
それにしても現実と虚構が軋んでいる。
たわみが互いを傷つけ合って奇妙な歪みが生じている。
多くの人々はそれに気づかないのだろうか?
虚構の一部になった人は現実に目をつぶる。
その結果、ドーナツの穴のように、ないはずのものが見えてくる。
キシキシ。

No.05026 23.07.17 立体曼荼羅

昔、立体曼荼羅について考えたことがある。
曼荼羅は普通平面上に円として描かれる。
立体曼荼羅は球として現れるだろう。
できれば、CGかアニメーションで立体的に動くといい。
配置の変化によって如来や菩薩も入れ替わっていく。
時間と配置の流れが如来や菩薩の姿や内面を変化させていく。

No.05025 23.07.15 気持ちいい機会

もし自分が、誰か他人の気持ちに同調できると、必ずしも自分が気持ちよくなくても、気持ちいいと感じる機会を増やすことはできるかもしれない。
ただし、誰かの不快や怒りとも同調することになるかもしれないので、そこでは大人の対応が必要となる。
誰かの不快や怒りと同調したとき、それはそれとして、感情で同調するのではなく、その感情を和らげたり、解決することのできる提案をしたりできるといいだろう。
まあ、言うのは簡単だが、実践するのはそう簡単ではないが。
そういうようなことをするとき、自分の感情は自分のものではあるが、自分だけのものではなくなる。
感情は往々にして伝播する。