鎌倉 長谷寺の観音ミュージアムに観音三十三応現身立像がある。
観音経などに観音の化身として三十二の応現身が出てくるそうで(一体は観音様そのもの)、それら三十三体の仏像が展示されている。
帰ってから観音経を読んでみた。
観音経は法華経の観世音菩薩普門品を独立させたお経で、楠木 雅俊氏の訳した法華経のその部分を再読した。
すると、読みながら華厳教入法界品を思い出す。
観音経は観世音菩薩が民衆を教え諭すのに、いろんな姿になって教化することが書かれている。
そのとき相手に合わせて三十二の姿に変身して教え導く。
一方で、華厳経入法界品では、主人公の善財童子が五十三人の様々な人々や菩薩などに教え導かれる。
観音経では第三者からみて観世音菩薩が教えを説くさま、華厳経入法界品では、「観世音菩薩が導く」とは書かれてないが、様々な人々から教えを受けることで修行が進むさまを読まされる。
仏道に帰依して修行する人は、きっと自身が教えることで、三方からの体験を満たすことになるのであろう。
「第三者からの視点」「教え導かれるものからの視点」、そして「教える者からの視点」。
三方を十分に味わうことで、衆生には見えない何かが見えてくるのだろう。
No.05425 25.09.05 スーフィーの物語
昨日の気持ちいいものを書いて、久しぶりに「スーフィーの物語」を読みたくなった。
いろんな精神的な教えとなる物語が書かれている。
多視点の価値を伝えるものもあり、ときどき読み返したくなる。
でも、アッタールの「鳥の言葉」を買ったまま積読状態だよなとも思う。
No.05417 25.08.07 多視点への慣れ
「羅生門」が公開されたころ、理解されにくい映画だったようだが、それが一般の人にも現代では見やすくなった理由は「多視点に慣れた」ことが大きいと思う。
視点が変われば同じ事実も別の見方ができることはもう普通のことになってきた。
以前はマスメディアの伝えることは真実としか思えなかったが、少しずつ事実の解釈にはたくさんの様相があり、受け止める立場や状況によって異なるものになることを理解するようになってきた。
意識の進化の発露であり、人類にとっていいことだと思う。
既得権益者には嬉しくないことなのかもしれないが、きっと人によるだろう。
No.05416 25.08.06 羅生門
黒澤明監督の映画「羅生門」を見た。
有名な映画だが、ずっと見る機会がなかった。
多視点をうまく使っている作品としていつか見ようと思っていた。
原作は芥川龍之介の『藪の中』。
ヴェネツィア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞した。
それで誰かがヴェネツィア国際映画祭に出品したりそこで受賞したりすると、その度に「羅生門」のことが伝えられる。
受賞したころは敗戦のすぐあとで、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立などとともに大いに日本人を鼓舞したそうだ。
黒澤監督はこんな言葉を残している。
日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。
その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。
これは反省する必要はないか。
浮世絵だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。
われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな?
『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。
だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。
当時は理解されにくい作品だったという。
登場人物が殺人事件の証言をする。
みんな少しずつ違う話をしていく。
そして最後に真相が語られるが、なぜそのようになっていたのかを説明するようなシーンはない。
鑑賞者が理解できないと、何の映画かもよくわからなかったのだろう。
それが証拠に脚本段階で映画の意図がわからなかった助監督たちが黒澤監督に詰め寄ったそうだ。
それに対して黒澤監督はこう答えたそうだ。
人間は、自分自身について、正直な事は云えない。
虚飾なしには、自分について、話せない。
この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。
いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。
これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。
現代の人が見ると、そんなに難しい話ではないと感じるだろう。
多くの人の目が、明らかに変わったのだ。
No.05406 25.07.12 七夕の祈り
令和7年7月7日はめでたい気分になっていたが、その理由の一つはこれだったのかもしれない。
これとは、アシタの祈りをおこなったさとうみつろう氏が、集まったシャーマン達と一緒に七夕の日の7時7分にも祈っていたそうで、その様子をYouTubeで見ることができる。
https://youtu.be/qCEZP3Hajhk
すごいことしたなと思う。
What a wonderful world.
No.05399 25.07.02 アシタの祈り
さとうみつろうという作家が中心になって、7月4日21時から、世界中で一緒に祈ろうというイベントができた。
ことの起こりは7月5日に起こるといわれていた大災害。
災害の恐怖に意識が集まらないようにと、楽しいことをしようという趣旨で始まったようだが、いろんな人が日本各地で集まり始め、神鍋という場所では大規模なイベントが組まれ、その中でみんな一緒に祈りましょうと声をかけたら、世界各地のシャーマンが集まることになり、世界中のサイキックな能力者が時を同じくして祈ることになり、ついにはダライラマ法王も一緒に祈ってくださることになったそうだ。
怪しげかもしれないし、まったく意味のないことかもしれないし、スピリチュアルかぶれの人ばかりが参加するのかもしれないが、僕は7月4日の21時が楽しみ。
https://youtu.be/IBgjRsXhqnQ
No.05394 25.06.14 社会的リフレーミング
拙著「ヒーリング・ライティング」や「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングについて書いた。
リフレーミングは個人の心で起きることだが、それが社会全体で一度に起こるような気がしている。
例えば、ウクライナとロシアや、イスラエルが中心となっている戦争について、多くの人はそこに恐怖を感じていると思う。
それがひっくり返る。
政治は世界中で混乱している。
理由は明確で、インターネットのおかげで政治家たちが裏で行なっていた不正や秘密にしておきたかったことが表に出てくるようになったから。
リーダーたちのあまりもの傍若無人ぶりに一般民衆が呆れ返って批難を通り越して馬鹿にしたり、支持をやめたりし始めているように感じる。
ある一線を越えることで社会的リフレーミングが起こり、一般民衆が目覚め、社会が別の位相に飛躍するのではないか?
No.05392 25.06.10 言霊の復権
「言霊の幸わう国」、それが日本です。
なぜ言霊が幸わうのか?
幕末に日本に来た外国人は日本人が楽しそうにしていることに疑問を持っていたそうです。
なぜ日本人は普段の生活の苦労を見せず、みんなあんなに快活なのかと。
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』には欧米人が書いたそのような文章の例がたくさん掲載されています。
欧米人が奇異に思うほど日本人は幸せそうだった。
なぜなら多くの日本人が「お天道さんが見ているから」と正直だったからです。
もちろん盗人や嘘つきがいなかったわけではないでしょう。
だけど、多くの人々は欧米人から見れば「馬鹿」がつくほど正直だったのです。
日本人にとっては不思議なことではないでしょうけど、欧米人にとっては信じられないことだったようです。
そんな国民性だから言霊が生まれた。
特に祝詞(のりと)や寿詞(よごと)など、当たり前に信ずるもので、「疑うか信じるか」と考えることすら不敬であったのでしょう。
それほど信じることが当たり前だったから言霊が生まれた。
現代は嘘が蔓延しています。
政治家が嘘を吐いたとかなんとかいう前に「自分の言葉を見つめるべき」だと気づきました。
多くの人がそうすることで次第に言霊が復権するように思います。
No.05391 25.06.08 菊理媛神(くくりひめのかみ)
2002年に出版した「あなた自身のストーリーを書く」に菊理媛神の話を書いた。
菊理媛神は白山神社や白山比咩神社の御祭神で、日本書紀に一度だけ登場する神様。
イザナギのみことがよもつ平坂でイザナミのみことと別れるとき、菊理媛神が何かを言うと、イザナギのみことが誉めるのですが、菊理媛神が何を言ったのかはわかりませんでした。
ところが、あの本を書いて23年も経ってから、「なるほど」という気づきがありました。
素晴らしい秘密でした。
今年、政治界隈で不思議なことが連発しています。
日本も変ですが、世界中変です。
菊理媛神の隠された言葉が実現するんだなと思った。
No.05385 25.05.23 多響的統一
垣内松三の著作に多響的統一という言葉が登場する。
もとはローマン・インガルデンというポーランドの哲学者が生み出した概念だそうだ。
それを垣内は言葉の説明に使っていた。
しかし、この多響的統一という言葉は、あらゆる物質、生命、宇宙にも当てはまる言葉だと思う。

