水が跳ねる瞬間とか、ものすごく動きが早いもののスローモーションを見るのは楽しい。
目では追うことができないような変化を丁寧に見ることができる。
世の中は効率化が大事だとされるが、思いっきり丁寧にゆっくりとやったら、それはそれで楽しいのではないだろうか?
コミュニケーションも、効率化をめざして途中を飛ばすようなのはAIにまかせて、ゆっくりと丁寧にやりとりすることで、今までにない何かを生み出すような部分を人間が務めればいいのではないだろうか?
難しい課題を丁寧にやりとりすれば、無理に戦争なんかしなくてもよくなるのではないだろうか?
なにごとも慌てるのはよくない。
No.05026 23.07.17 立体曼荼羅
昔、立体曼荼羅について考えたことがある。
曼荼羅は普通平面上に円として描かれる。
立体曼荼羅は球として現れるだろう。
できれば、CGかアニメーションで立体的に動くといい。
配置の変化によって如来や菩薩も入れ替わっていく。
時間と配置の流れが如来や菩薩の姿や内面を変化させていく。
No.05025 23.07.15 気持ちいい機会
もし自分が、誰か他人の気持ちに同調できると、必ずしも自分が気持ちよくなくても、気持ちいいと感じる機会を増やすことはできるかもしれない。
ただし、誰かの不快や怒りとも同調することになるかもしれないので、そこでは大人の対応が必要となる。
誰かの不快や怒りと同調したとき、それはそれとして、感情で同調するのではなく、その感情を和らげたり、解決することのできる提案をしたりできるといいだろう。
まあ、言うのは簡単だが、実践するのはそう簡単ではないが。
そういうようなことをするとき、自分の感情は自分のものではあるが、自分だけのものではなくなる。
感情は往々にして伝播する。
No.05023 23.07.13 気持ちいいものの区別
いろんな気持ちいいものを感じてきたが、そろそろ気持ちいいものの区別について考えるべきだと思っている。
立場が違うと気持ちいいものも変わってくる。
大抵気持ちいいものは個人的なものだ。
だけど、それだけではない。
個人としては少し不快だが、集団としては気持ちいいものというものがある。
個人としては気持ちいいが、集団として考えると不快に思えることもある。
個人でも、どの立場にいるかで快不快は変わるし、集団でも、どのような集団かで快不快は変化する。
人類の未来のためにどう考えるべきなのだろう?
No.05020 23.07.10 慣れて始まる自動運転
慣れると飽きるが、同時に自動運転が始まる。
あまり意識せずにいつものことをおこなっていく。
多くの場合、仕事をするというのは、その自動運転状態だろう。
そこにどんな工夫を持ち込むのかが大切なことになる。
自動運転は人によって個性があり、これが正解というものが一つには決まらない。
それが楽しさの入り口ともなる。
こんな話をどこかの本で読んだ。
かつてピカソの絵を入手した画商が、その絵は本物かどうかピカソに尋ねたことがあった。
ピカソは一目見て「偽物だ」と言った。
画商は別の日にピカソが描いて倉庫にしまってあった絵をこっそり持ち出して、「これは本物か?」と聞いた。
ピカソは「偽物だ」と言った。
画商は「実は倉庫にあったものを持って来てんだぞ」と言った。
するとピカソはこう答えた。
「僕は自分の贋作をたくさん描くんだ」
No.05019 23.07.09 慣れてしまうこと
慣れるというのは、感情にとって一大事だ。
ずっと同じことをし続けていると大抵飽きる。
飽きたらやめる。
やめたあとで飽きることの価値に気づいたりする。
「日刊 気持ちいいもの」は1999年11月から始め、一度999回でやめた。
それを2010年7月からtwitterで再開し、以来4000回ほど続けている。
何度も飽きたが、最近はもう飽きることがない。
飽きるという感情が生まれるよりも、そこに関する探究が始まる。
その探究は毎回似たようなもの。
似たようなものの繰り返しが、ときどき飛躍を生む。
飽きたことによる飛躍と、それを超えて繰り返すことで起きる飛躍。
どっちもありだ。
No.05012 23.07.01 蓮の花
沼から伸び出てパッと美しい花を咲かせる蓮の花。
その様をイメージして結跏趺坐することを蓮華座という。
法華経はサンスクリットから訳出すると「白蓮華のように最も優れた正しい教え」となるそうだ。
その美しさと品、そして力強さが多くの人を魅了する。
その美しさをとらえたくて何度も撮影した。
No.05000 23.06.15 祝5000回
「日刊 気持ちいいもの」が、5,000回を迎えました。
ありがとうございます。
10,000回をめざします。
No.04995 23.06.08 十年後から見る
十年後から現代を見たらどんなふうに見えるのだろう?
ケネディ大統領の暗殺のようにうやむやなままか。
すべてが明らかになっていい世界になっているか。
もちろん後者のようであって欲しい。
No.04661 21.11.19 柿
庭になっていたという柿を知人からいただいた。
いただいたときはまだ硬かったのでしばらくおいて今朝食べた。
やっぱり両親のことを思い出す。
18.11.30のNo.03715に書いた話。
毎年硬い柿が好きな母は硬いうちに柿を食卓に出し、父は柔らかい柿が好きだったので怒る。
ニーチェは「夫婦生活は長い会話だ」と言ったそうですが、柿の話を思い出す度に「夫婦は永遠の会話だ」と思うのです。
なにしろ、毎年繰り返していた両親の会話を、二人とも亡くなってからも僕が思い出し、僕がこうして書くことで、誰かがその話をきっといつか思い出すんだろうなと思うから。
言語学者が、子どもがどのように言語を獲得していくのか研究するため、自分の幼い娘の会話をすべて記録して分析したことがありました。
予想では、新奇なことをたくさん話すのだろうと予測していましたが、実際には話題は限られていて、ほぼ毎日繰り返されることの些細な変化についてよく話したそうです。
両親の柿の話もきっと毎年些細な変化を繰り返し、最初は本気で喧嘩していたが、途中から毎年の恒例になり、そのうちに「また柿の季節になったねぇ」という意味を含んだ口げんかとなり、最後には「また今年もこの会話を繰り返すよ」と思いながら、談笑していたのかなと思います。
その毎年の変化に当時の僕は気づけず、本当のところは覚えてないのですが。
こうやって繰り返すことで、新たな発見があり、新たな概念が生まれ、それがいつしか新しい言葉として表現されるようになり、子どもは言語を獲得し、大人はさらなる気づきを得ていくのでしょうか。

