遅ればせながらトマ・ピケティの「21世紀の資本」映画版を見た。
とてもわかりやすくまとまっている。
このままの資本主義を続けていくとどのように問題になるのかが浮き彫りにされていた。
本の日本語訳が出版されたのが2014年の12月で、騒ぎになったのは2015年だったのだろうけど、今こそ見直すべき内容だと思う。
再分配の不平等が行き詰まると戦争が始まるという轍をまた踏むのだろうか?
No.05031 23.07.25 生と再生
一週間ほど前に宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見た。
とても面白かったが、あの映画で何を伝えたかったのか、はっきりとはわからなかった。
ところが今朝起きたら、「あれは『生と再生』だ」と思った。
それはミルチャ・エリアーデの著書。
副題が「イニシエーションの宗教的意義」。
「君たちはどう生きるか」というタイトルからもわかるが、この作品は成人儀礼に関するニュアンスが含まれている。
つまり「大人になるとはどういうことか」を伝えている。
だけど、かつての古めかしい価値観を伝えるようなことを宮崎駿はしない。
しかも、成人儀礼を突き抜けて、超自然者への参入を促すイニシエーションにも思える。
成人儀礼は一般的な社会観、道徳感、宗教観、性道徳などを授けるが、超自然者への参入では、その修練を受ける準備としておこなわれる。
色々と説明すると長くなるので、『生と再生』のなかで、なぜこれが宮崎駿の「君たちはどう生きるか」とつながるのかを説明していると感じる部分を引用する。
以前にも述べたように、加入礼は正しく人生の核に横たわっている。そして二つの理由から、この見方は正しい。第一は、正しい人生とは、深刻な危機、責苦、苦悩、自我の喪失と再確立、死と復活を含意するからである。第二の理由は、ある程度仕事を成就したにしても、ある時点では万人がその人生を失敗と見るという点である。この幻想はその人の過去に対してなされる倫理的判断からではなくて、その召命(天職)をとりにがしたとの漠然たる感情からおこるのである。 つまり、その人は自らのうちにある最善なるものを裏切ったという感情である。こうした全面的な危機の時点で、ただひとつの希望、人生をもう一度始めからやり直すという希望だけが、ある成果をもたらすように思われる。要するに、このことは、こうした危機に見舞われている人は、新しい、再生された生活を充分に実現し意義あるものにしようとの夢を持つことなのである。それは宇宙が更新されるように、万人の魂が季節的にみずから更新されるといった漠然たる希求以外のもの、それを遥かに超えるものである。こうした八方塞がりの危機に際する希求や夢は決定的で、全体的なレノバティオ(renovatio)=生命の変革できる更新を獲得することである。
M.エリアーデ 堀一郎訳 『生と再生-イニシエーションの宗教的意義』 東京大学出版会刊
現在の子供が成人したとき、どんな職業が存在するのかよくわからない社会で生き延びるためには、あのアニメに含まれていたような感覚が必要となるのだろう。
No.05030 23.07.23 スローモーション
水が跳ねる瞬間とか、ものすごく動きが早いもののスローモーションを見るのは楽しい。
目では追うことができないような変化を丁寧に見ることができる。
世の中は効率化が大事だとされるが、思いっきり丁寧にゆっくりとやったら、それはそれで楽しいのではないだろうか?
コミュニケーションも、効率化をめざして途中を飛ばすようなのはAIにまかせて、ゆっくりと丁寧にやりとりすることで、今までにない何かを生み出すような部分を人間が務めればいいのではないだろうか?
難しい課題を丁寧にやりとりすれば、無理に戦争なんかしなくてもよくなるのではないだろうか?
なにごとも慌てるのはよくない。
No.05026 23.07.17 立体曼荼羅
昔、立体曼荼羅について考えたことがある。
曼荼羅は普通平面上に円として描かれる。
立体曼荼羅は球として現れるだろう。
できれば、CGかアニメーションで立体的に動くといい。
配置の変化によって如来や菩薩も入れ替わっていく。
時間と配置の流れが如来や菩薩の姿や内面を変化させていく。
No.05025 23.07.15 気持ちいい機会
もし自分が、誰か他人の気持ちに同調できると、必ずしも自分が気持ちよくなくても、気持ちいいと感じる機会を増やすことはできるかもしれない。
ただし、誰かの不快や怒りとも同調することになるかもしれないので、そこでは大人の対応が必要となる。
誰かの不快や怒りと同調したとき、それはそれとして、感情で同調するのではなく、その感情を和らげたり、解決することのできる提案をしたりできるといいだろう。
まあ、言うのは簡単だが、実践するのはそう簡単ではないが。
そういうようなことをするとき、自分の感情は自分のものではあるが、自分だけのものではなくなる。
感情は往々にして伝播する。
No.05023 23.07.13 気持ちいいものの区別
いろんな気持ちいいものを感じてきたが、そろそろ気持ちいいものの区別について考えるべきだと思っている。
立場が違うと気持ちいいものも変わってくる。
大抵気持ちいいものは個人的なものだ。
だけど、それだけではない。
個人としては少し不快だが、集団としては気持ちいいものというものがある。
個人としては気持ちいいが、集団として考えると不快に思えることもある。
個人でも、どの立場にいるかで快不快は変わるし、集団でも、どのような集団かで快不快は変化する。
人類の未来のためにどう考えるべきなのだろう?
No.05020 23.07.10 慣れて始まる自動運転
慣れると飽きるが、同時に自動運転が始まる。
あまり意識せずにいつものことをおこなっていく。
多くの場合、仕事をするというのは、その自動運転状態だろう。
そこにどんな工夫を持ち込むのかが大切なことになる。
自動運転は人によって個性があり、これが正解というものが一つには決まらない。
それが楽しさの入り口ともなる。
こんな話をどこかの本で読んだ。
かつてピカソの絵を入手した画商が、その絵は本物かどうかピカソに尋ねたことがあった。
ピカソは一目見て「偽物だ」と言った。
画商は別の日にピカソが描いて倉庫にしまってあった絵をこっそり持ち出して、「これは本物か?」と聞いた。
ピカソは「偽物だ」と言った。
画商は「実は倉庫にあったものを持って来てんだぞ」と言った。
するとピカソはこう答えた。
「僕は自分の贋作をたくさん描くんだ」
No.05019 23.07.09 慣れてしまうこと
慣れるというのは、感情にとって一大事だ。
ずっと同じことをし続けていると大抵飽きる。
飽きたらやめる。
やめたあとで飽きることの価値に気づいたりする。
「日刊 気持ちいいもの」は1999年11月から始め、一度999回でやめた。
それを2010年7月からtwitterで再開し、以来4000回ほど続けている。
何度も飽きたが、最近はもう飽きることがない。
飽きるという感情が生まれるよりも、そこに関する探究が始まる。
その探究は毎回似たようなもの。
似たようなものの繰り返しが、ときどき飛躍を生む。
飽きたことによる飛躍と、それを超えて繰り返すことで起きる飛躍。
どっちもありだ。
No.05012 23.07.01 蓮の花
沼から伸び出てパッと美しい花を咲かせる蓮の花。
その様をイメージして結跏趺坐することを蓮華座という。
法華経はサンスクリットから訳出すると「白蓮華のように最も優れた正しい教え」となるそうだ。
その美しさと品、そして力強さが多くの人を魅了する。
その美しさをとらえたくて何度も撮影した。
No.05000 23.06.15 祝5000回
「日刊 気持ちいいもの」が、5,000回を迎えました。
ありがとうございます。
10,000回をめざします。

