ペンキ画家のショーゲンさんが「人類が生まれてきた役割は祝福すること」と言っていた。
ブンジュ村の村長さんから教わったという。
それを聞いて僕は感激したのだが、そこから思ったこと。
人間は何でもかんでも名前をつける。
名前をつけることで言葉にし、会話に使う。
これこそが祝福の深い意味だなと思った。
No.05107 23.12.10 華厳経入法界品 下巻
ほぼ一年かけて読んできた華厳経入法界品が上巻、中巻を終えて下巻に入った。
どんな話かというと、主人公である善財童子が最高の悟りである無上正等覚を得るためにいろんな人を訪ねていく。
53名の人や王や僧や女神や菩薩に会い、いろんな話を聞いていくが、次第に内容が広大かつ精密なものになっていく。
最高の悟りに行き着くために、いくつもの悟りについて話を聞いていく。
しかし、その一つ一つがどのような悟りなのか具体的には書かれておらず、読み進めれば進めるほど疑問ばかりが増えていく。
だから、明確に理解しようとすると挫折するようにできているように感じる。
下巻の終わりに何が見えてくるのか楽しみ。
No.05063 23.10.09 書いて忘れる
10年以上前に書いた記事は忘れていることがある。
特にこの「日刊 気持ちいいもの」に書いたことは忘れやすい。
書いてあるのを読んで思い出す。
なかには読んでも思い出さないものもある。
No.05062 23.10.03 気持ちいいものを感じる
ときどき気持ちいいものが感じられなくなるときがある。
無理やり感じても仕方ない。
何かが気持ちいいものだと嘘をついたら無意味だ。
いろんなものの気持ちいいことを感じてきたのでネタ切れだというのもある。
もう無理と感じることももちろんある。
でも、それでも見つけられたときの気持ちよさよ。
No.05057 23.09.28 ある特別な感じ
ある特別な感じがあると、それを僕は貴重なことだと思う。
朝日が昇る海に光の道ができるとき。
鳥が舞い降り何かいいたげなそぶりを見せるとき。
大きな二重の虹がかかったとき。
そういうことがあると、貴重だなと思う。
でも、とても些細で当たり前にしか見えないことでも、それが起きることは滅多にないとき、それは貴重なことではないか?
玉子を割ったら黄身が二つ出てきたとか、大きなはまぐりに小さなカニが隠れていたとか、本棚に父から母へのラブレターを見つけたとか、押入れの奥にしまわれていた本を読んだらことのほか面白かっただとか、友達を紹介すると言われて会ったら10年以上前の知り合いだったとか、一生懸命調べたことに疑問を持っていたら、たまたま会った人にその詳細を教えてもらうとか。
当たり前のことの中に、ある特別な感じが埋まっているのを、なぜ僕は気づかなかったのだろう。
No.05044 23.08.23 マウイ島ラハイナ
ラハイナが焼け落ちた。
山火事が延焼して街一つが焼けてしまったという。
この事件以来、気持ちいいものを思い浮かべようとすると、ついラハイナを思い出す。
火災が起きてすぐにそのことについて書くのはどうかなと思い、書かずにいた。
ラハイナには三度ほど行った。
とてもいい街だった。
あんなにいい街がなくなった。
その喪失感が深い。
そこで、ラハイナの素晴しさをしばらく書いていく。
ラハイナの人々がこれからも幸せで、コミュニティも再生されるように祈りながら。
No.05025 23.07.15 気持ちいい機会
もし自分が、誰か他人の気持ちに同調できると、必ずしも自分が気持ちよくなくても、気持ちいいと感じる機会を増やすことはできるかもしれない。
ただし、誰かの不快や怒りとも同調することになるかもしれないので、そこでは大人の対応が必要となる。
誰かの不快や怒りと同調したとき、それはそれとして、感情で同調するのではなく、その感情を和らげたり、解決することのできる提案をしたりできるといいだろう。
まあ、言うのは簡単だが、実践するのはそう簡単ではないが。
そういうようなことをするとき、自分の感情は自分のものではあるが、自分だけのものではなくなる。
感情は往々にして伝播する。
No.05023 23.07.13 気持ちいいものの区別
いろんな気持ちいいものを感じてきたが、そろそろ気持ちいいものの区別について考えるべきだと思っている。
立場が違うと気持ちいいものも変わってくる。
大抵気持ちいいものは個人的なものだ。
だけど、それだけではない。
個人としては少し不快だが、集団としては気持ちいいものというものがある。
個人としては気持ちいいが、集団として考えると不快に思えることもある。
個人でも、どの立場にいるかで快不快は変わるし、集団でも、どのような集団かで快不快は変化する。
人類の未来のためにどう考えるべきなのだろう?
No.05020 23.07.10 慣れて始まる自動運転
慣れると飽きるが、同時に自動運転が始まる。
あまり意識せずにいつものことをおこなっていく。
多くの場合、仕事をするというのは、その自動運転状態だろう。
そこにどんな工夫を持ち込むのかが大切なことになる。
自動運転は人によって個性があり、これが正解というものが一つには決まらない。
それが楽しさの入り口ともなる。
こんな話をどこかの本で読んだ。
かつてピカソの絵を入手した画商が、その絵は本物かどうかピカソに尋ねたことがあった。
ピカソは一目見て「偽物だ」と言った。
画商は別の日にピカソが描いて倉庫にしまってあった絵をこっそり持ち出して、「これは本物か?」と聞いた。
ピカソは「偽物だ」と言った。
画商は「実は倉庫にあったものを持って来てんだぞ」と言った。
するとピカソはこう答えた。
「僕は自分の贋作をたくさん描くんだ」
No.05019 23.07.09 慣れてしまうこと
慣れるというのは、感情にとって一大事だ。
ずっと同じことをし続けていると大抵飽きる。
飽きたらやめる。
やめたあとで飽きることの価値に気づいたりする。
「日刊 気持ちいいもの」は1999年11月から始め、一度999回でやめた。
それを2010年7月からtwitterで再開し、以来4000回ほど続けている。
何度も飽きたが、最近はもう飽きることがない。
飽きるという感情が生まれるよりも、そこに関する探究が始まる。
その探究は毎回似たようなもの。
似たようなものの繰り返しが、ときどき飛躍を生む。
飽きたことによる飛躍と、それを超えて繰り返すことで起きる飛躍。
どっちもありだ。

