聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。
No.04683 22.01.13 聖なるもの
人は聖なるものに触れて動かされる。
その感情はなかなか表現しにくい。
オットーという神学者はそれをヌミノーゼと言った。
科学的にものを考えるようになり、聖なるものに触れる体験を忘れかけているかもしれない。
これからしばらく僕なりの、聖なるものとの接触について思い出してみようと思う。
No.04671 21.11.29 言い方
同じことを言われているのに、喜んでそれをしたくなる言われ方と、したくないと思ってしまう言われ方がある。
言われる方としては、やること自体が変わらないなら、どちらの言われ方でも同じように受けとろうと考えるが、伝える方としては言い方に気をつけるしかない。
だから、一対一のメールのように思えて、大量に発信するメールには、いろんな人にそれぞれの立場によって異なる違和感が生まれる。
一対一の関係はどれも全部微妙に違うので、同じ言い方で流すと相手はちょっとおかしいと感じる。
そういう微妙な違いも楽しめる関係だといいんだけどね。
No.04656 21.11.14 言語存在論
言語存在論を読み終えた。
意味は少しずつ変化する。
意味は、言葉を使う人によって少しずつ違う。
『ヒーリング・ライティング』や『あなた自身のストーリーを書く』に書いておいたことが、言語学者から説明された。
言語学を専門に学んだわけではないので、これでお墨付きを得た感じがする。
No.04652 21.11.10 愛による、個人の全体化
個性を伸ばしていくと、個性同士がぶつかり合って、なかなか合意に至れないと考えがちである。
しかし、テイヤール・ド・シャルダンは、その背景にキリスト的な愛がありさえすれば、互いに認め合うことが可能であるとし、それが人類を統合するための鍵だとした。
みんなが同じ考えを持つべきと考えるのではなく、みんな違ってみんないい状態を、愛を通して生み出すことができるという。
それがいったいどういうことなのか、僕たちはまだ知らない。

