No.05129 24.01.10 魔法

毎日のように魔法を目の当たりにしている。
でも、当たり前になってしまったことは魔法のようには思えない。
なぜ原子は分子になりたがるのか?
なぜ分子は不安定なはずの巨大分子になっていくのか?
なぜたくさんの巨大分子がタンパク質になるのか?
なぜいろんな種類のタンパク質が積み重なって単細胞生物になるのか?
なぜいろんな種類の単細胞生物ができるのか?
なぜいろんな種類の単細胞生物が協力し合うのか?
なぜ協力し合っていた単細胞生物が多細胞生物になったと思えるのか?
なぜ多細胞生物は進化ののちに社会を作るようになるのか?
なぜ社会を作るようになった多細胞生物は個体間でコミュニケーションを始めるのか?
なぜコミュニケーションが複雑になり、いつしか言葉を生み出すのか?
なぜ言葉によって言葉以前の生命ができなかったことができるようになるのか?
理解できるのは、複雑性が増すと魔法が現れてくるかもしれないこと。
多数決で社会を動かしているうちは、このような魔法はきっと現れてこないだろう。

No.05128 24.01.09 華厳経は何が面白いの?

それには簡単には答えられない。
華厳経にはいろんな内容が精緻に折りたたまれ、比喩となり、こちらの知識を刺激して、解明してくれるから。
例えば、毘盧遮那仏を宇宙と見立てると、現代の宇宙物理学を教わっているかのように思えてくる。
如来や菩薩の会話の構造は、ホロンに関して教えられているようだ。

その内容がなぜ言葉にしにくいのかというと、第一章にあたる寂滅道場会の最後に童子(こどもor青年)が出てきて、仏と会話をし、悟りとはどれだけ素晴らしいことかと話すのだが、その会話はほんの五十行程度で終わる。
華厳経の最終章である入法界品では、文庫本三冊で善財童子がどのように悟っていくかが示される。
その方法は基本的には悟ったといわれる人たちに会って、その話を聞いていくだけなのだが、いろんな人に会い続けるうちに次第と童子の心の中に生まれてくる内容が大きくなっているだろうことが読み手に推測され、書かれていることが理解されるのと同時に、書かれていないことも大きく膨らんでいく。
何度も何度も似た話を繰り返されたりもするが、そのことによって、その内容のわずかな違いが大切であることに気付かされ、そのわずかな違いに注意を払い出すと、その理由が見えてくるようになる。
寂滅道場会の最後に五十行程度で記されていたことが、実は如来になると文庫本三冊分の膨大な知恵になっていることが明確になる。
つまり華厳経で教えてもらうことは、言葉で簡単に教えてもらうことがどれも、実はものすごい時間や空間や人々の会話や、深い知恵によって作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解し、常にそのことを背景にあらゆることを感じるというのはどういうことであるかに目覚めていることとはどういうことかを伝えてくれている。
つまりそれは、どんなに簡単に思える存在でも、実はものすごい時間や空間や生死を通して作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解することであり、それに目覚めた状態で世界と対峙するとはどういうことかを教えてくれる。
だから、読む人によって見えてくるものはきっと違い、その違いがガンジス川の砂粒の数ほど多いのだろうことが理解される。

No.05127 24.01.08 華厳経

昔、僕がまだ大学生の頃、フィリッチョフ・カプラの著書『タオ自然学』にブーツストラップ仮説という論が出てきて、その説明として華厳経のことが書かれていた。
当時は華厳経に関する本が見つけられず、10年ほどしてから古本屋で、筑摩書房の世界古典文学全集の「仏典II」に、抄訳を見つけて読んだ。
前半の抄訳だったが、それだけでも楽しめた。
しかし、いつかは内容を全部を読みたいと思っていた。
2021年に岩波文庫から『華厳経入法界品』が出版された。
それは華厳経の最終章である。
全体の三分の一ほどの文章量らしい。
厚めの岩波文庫で三巻だった。
大変楽しめた。
いろんな気づきがあり、感情を揺さぶられた。
どうしても全部読みたくなってきたが、国書刊行会で出していた口語全訳は品切れになっていた。

No.05120 23.12.28 自分の中に矛盾があることに気付くこと

自分にはいろんな立場がある。
その立場一つ一つについてよく考えていくと、どうしても矛盾があることに気付かされる。
矛盾を解消するためによく使う手段は、ある立場を無視することのように感じる。
それはその立場と同一視している自分自身を抹殺しているのに等しい。
ある立場を生かすために、別の立場の自分を殺している。
両方の立場を生かすためにはどうしたらいいのか。
双方を生かすために悩み解決することが、本当に自分を愛するということなのではないか?
自分の中の矛盾を解決できない限り、他人との矛盾はさらに解決が難しいのではないか?
この一見簡単な問題すら答えられないとしたら、複雑化していく社会の中で、錯綜した問題は解答不可になるのではないか?
だから、解答の難しい問題を時間をかけて、手間をかけて答えていくことは、何かを愛することと同等なことなのではないか?

No.05112 23.12.15 人類の役割

ペンキ画家のショーゲンさんが「人類が生まれてきた役割は祝福すること」と言っていた。
ブンジュ村の村長さんから教わったという。
それを聞いて僕は感激したのだが、そこから思ったこと。
人間は何でもかんでも名前をつける。
名前をつけることで言葉にし、会話に使う。
これこそが祝福の深い意味だなと思った。

No.05107 23.12.10 華厳経入法界品 下巻

ほぼ一年かけて読んできた華厳経入法界品が上巻、中巻を終えて下巻に入った。
どんな話かというと、主人公である善財童子が最高の悟りである無上正等覚を得るためにいろんな人を訪ねていく。
53名の人や王や僧や女神や菩薩に会い、いろんな話を聞いていくが、次第に内容が広大かつ精密なものになっていく。
最高の悟りに行き着くために、いくつもの悟りについて話を聞いていく。
しかし、その一つ一つがどのような悟りなのか具体的には書かれておらず、読み進めれば進めるほど疑問ばかりが増えていく。
だから、明確に理解しようとすると挫折するようにできているように感じる。
下巻の終わりに何が見えてくるのか楽しみ。

No.05101 23.12.02 他人の心

自分の心は自分にしかわからない。
しかも、自分の心は自分でも知り尽くすことが難しい。
ふと思い出したことがなぜ思い出されるのか、常に答えられるわけではない。
「きっとこうだ」という推測以上にはならないことがある。
自分の心すら思うようにならない。
まして他人の心など。

No.05100 23.12.01 神は内側に

原子が連なりいろんなものになる。
分子が高分子になり、高分子がタンパク質になり、いつしか生命が形作られる。
無機物が有機物になるとか、命のないものが命を得るとか考えるけど、ひょっとして原子にはすでに命の端緒が含まれているのではないか?
含まれているというより、生命そのものかも。
もしそうだとすると、どんなものにも命の端緒が含まれていて、無生物と生物との境界は、実はないのではないか?
人間が原子の生み出す現象をどのように見るか、解釈するかで、見えてくるものが変わるのではないか?
だから、、、

No.05096 23.11.22 気持ちいい状態で書く

「日刊 気持ちいいもの」を書くにあたり最近注意していることがある。
それは「気持ちいい状態で書く」ということ。
「気持ちいい状態を思い出して書く」のとはちょっと違う。
「ああ、あのときは気持ちよかったな、こんなふうに」と書く文章と、「今、気持ちいい状態で書く」というのでは微妙に違う。
それでできあがる文章はもしかしたらあまり違わないかもしれない。
でも、その違いについて最近は考えながら、感じながら書いている。