No.05156 24.02.25 気持ちいいものの進化について考える

生命が進化するとき、「気持ちいい」というのは大きな動機の一つだったのではないか?
きっと他にも動機はあるだろう。
例えば「強いられて仕方なく」とか「それしかしようがなかった」とか。
ここではいろんな動機のうちで「気持ちいい」ことだけに着目する。
「気持ちいい」ことが理由で進化したのは、例えば、「エネルギーを有効に取り込める」とか「子孫をたくさん残せる」とか「生息域を広げられる」とか。
それでいろんな動物がきっと進化したわけだけど、類人猿が人間になることで「気持ちいい」の範囲がきっと広がっただろう。
例えば、チンパンジーはいろんな情報を伝え合っている。
その情報で命が助かったり、食べ物を見つけたりしたら、きっとチンパンジーなりに「気持ちいい」と思うのではないか?
人間は、言葉を発することで物語ることができる。
その物語は、チンパンジーが声や身振りで伝達する以上のデータ量を含むことができる。
その結果、その大量のデータ量によってはじめて得られる気持ち良さがある。
例えばヒーローの物語を聞いたとする。
痛快な物語であればヒーローに共感して気持ちいい。
チンパンジーにはきっとそんなことは無理だろう。
つまり、「気持ちいい」は進化する。
人の心が進化することで「気持ちいいこと」も進化していく。
例えば、人間の心に次の五つの段階があったとする。

1.自分のことにしか興味が持てない段階。
2.仲間のことには興味を持つが、仲間ではないと思った人間には興味のない段階。
3.善と悪に興味を持ち、善だけを守ろうとする段階。
4.善と悪に興味を持ち、善悪を超えて調和を得ようとする段階。
5.善悪を超越してすべての存在が共存できる状態。

それぞれの段階で「気持ちいい」は変化していくはず。
人間の「気持ちいい」は、この進化の過程にあると言って良いだろう。

No.05153 24.02.20 コミュニケーションによる共生

人類はずっと「もう人間は変わらない。進化の究極が人間」と思い込んできた。
ところが、丁寧に観察すると、人間は少しずつでも進歩していることがわかる。
技術的にはこの数十年で飛躍的に進歩した。
ところが、その技術を支える人間の心はどうだろう?
戦争を許容しているという一点で、ほとんど進歩していない、と考えることに賛同してくれる人は多いのではないかと思う。
だけど、心理学は進歩した、スピリチュアルな価値は高まった、しかし、心を病んでいる人は増えているような気がする。
なぜだろうか?
たった一つのことに責任を負わせることは正しくないと思う。
様々な要素の莫大な繰り返しが、些細な問題を増幅しているように感じる。
だとすると、もう人間には手の打ちようがない。
そんなことを考えてしまうのも致し方ないようにも思える。
でも、もし人間が万物の霊長だとしたら、常に自分という存在を超えていかなければならない。
様々な要素の莫大な繰り返しを適切に使うことを人間は覚えたはずだ。
もし適切でないなら、どの部分が適切ではなく、どの部分をさらに伸ばしたらいいのか、考えるべきだ。
日本の国会では議論するのを諦めている。
これは最もしてはならない態度だろう。
では、何を改めたらいいのか?
過去のやり方を手放さなければならない。
手放して、新たなやり方を試していくべき。
どんなやり方を?
まずは多数決を手放し、議論によってシステムの精度を高める方法とそれを進めるための態度を学ばなければならない。
議論するとき、勝ち負けを手放す。
どういうことかというと、勝ったものを推し進め、負けたものは諦めるのではなく、負けたものにも可能性を与え続けることで、一時的には勝った論に席を譲っても、充分に成熟した論であれば再び議論の席に戻れる可能性を残しておく。
そのような考え方が大切になるのではないか?
議論に費やす時間は増えることになるだろう。
大きな権力を握ったものには厄介な考え方だろう。
でも、そのようにしていかない限り、もう人類の存続は難しい状態になってきた。
単純な仕事はみんなロボットやAIに任せて、人間でなければできない仕事に注力できるよう、その基礎を作るべき時が来た。

No.05152 24.02.19 Welcome to complex system

いろんなところで「自分に正直に」と言われるようになってきたけど、「自分に正直であることが難しい」ことに気づかなければならない。
内省してみると自分にはたくさんの立場があることに気づく。
そして、それらの立場たちは、常に同じ意見を持てるようなものではないことが多い。
つまり立場によって自分の意見が分裂させられる。
もしそのことに気付かないと、自分の心の「ある部分」を無視することになる。
例えば、かつてのtwitter、現在のXで、本名がわからないようにペンネームを使っている人は、公では言えない意見を持っていることに気づいている。
だからXではペンネームを使い、自分が誰かを知られないようにしている。
そういう人は、自分の意見が「実際に言いたいこと」と「立場上言わなければならないこと」が分裂していることに気付いている。
心配なのは、そういう分裂を許容できず、何かの立場から言わなければならないことだけが自分の意見だと思い込んでいる人だ。
そういう人が心のバランスを崩すようだ。
自分の内側でいろんな立場からの意見を吟味して、立場ごとに異なることを意識して、できればそれらを言語化するといい。
今はいくつもある立場のどれからも認められる答えは出せないかもしれない。
であれば、立場ごとに違う答えがあることを認めて、それを表現したらいい。
それを繰り返すことで、どの立場からも認められる答えが、いつかは出せるようになるかもしれない。
なぜそのようなことが言えるのか?
多くの人がたくさんの立場を抱えていて、立場ごとに違う答えを持っていることに気づき、そのことが常識のようになれば、立場ごとに違う答えを持っていることはきっと、賞賛されることになるから。
そうなってはじめて許容される答えが生まれるはず。

No.05151 24.02.15 人類が直面しているもの

人間はなぜ言葉を獲得したのか、誰も説明できない。
言葉を獲得する以前の類人猿はなおさら、言葉がどのようなものか理解できない。
人類は言葉を獲得したが、それはなぜだかを説明できていない。
言葉を獲得したことによって、かつてできなかったことができるようになった。
どんなことができるようになったのかは説明できる。
それは、概念を操作できるようになったことだ。
言葉がないと概念は持ちようがない。
「科学」や「愛」、「社会」や「美術」などは言葉がないと概念化できなくなる。
人類がはじめて持った言葉はおそらく自然物を表現したものだったはずだ。
「草」とか「狼」、「空」とか「月」など。
それがいつしか動詞と組み合わされる。
「走る」「作る」「壊す」「叩く」など。
それらの組み合わせが豊富になって文法が形作られるようになったはず。
そうすると原始的な言葉が存在することで、次第に繊細な区別が生まれるようになったはず。
繊細な区別が生まれれば生まれるほど、さらにことばは繊細になることができるようになる。
それと共進化したのが言語を操る脳や、発声のための口の周りの筋肉や、音の調節をする声帯など。
言葉を得るためにはいろんな機能が共進化していったはず。
その結果、概念を持つことがきるようになった。
この共進化は概念が持てるだけでは終わらない。
言葉は声だけにとどまらなくなった。
文字になり、本になり、さまざまな学問が共進化に含まれるようになり、新聞になり、雑誌になり、マスメディアになり、電話になり、スマホになり、共進化の範囲も分野も大きく膨れ上がり、誰も統一的には説明しきれなくなってきた。
いったい僕たち人類は何をしているのか?
類人猿が言葉を使い始めた頃、それが何を意味するのか、誰も理解できなかった。
それと同じに、言葉が拡張した先に何が生まれるのか、今の僕たちが理解できるのは、きっとその序の口にあるものだけだろう。

No.05142 24.01.31 曖昧な境界

生きていることを考えるとき、いろんなことの境界は曖昧になる。
だからと言って、死ねば境界がはっきりするかというと、そういう訳ではない。
境界をはっきりさせることは、幻想を生み出すのではないか。
境界を示すために言葉を使う。
それが理由かもしれない。

生命はずっと、言葉を使わずに生きてきた。
魚も両生類も爬虫類も鳥類も哺乳類の多くも、言葉は使わずに生き続けてきた。
それが、なぜか人間が、言葉を生み出した。
言葉があると便利である。
なんでもわかった気になれる。
その理解が正しくないかもしれないのに。
単なる誤解も正しいと思うことで流布される。
歴史を見れば、人間は誤解を積み重ねてきたことがわかる。
現代の知識でその誤解を解いたと思い込んでいる。
どの時代に生きた人間も、そのときどきの知識が一番正しいと思っていたはず。
現代の知識も、時が経てば、笑いぐさにされるのかもしれない。
でも、一握りの真実が、言葉にもあるはず。
それは確実に伝達され、僕もそれを利用している。
にもかかわらず、それを言葉にするのは難しい。
生命が長いあいだ生きてきたのに、遺伝情報がどんなものかを正しく認識できないのに似ている。

No.05135 24.01.18 龍の話

12年前の辰年には龍の話なんてほとんどしなかったように思う。
ところが、今年はあちこちで龍の話を聞く。
なぜかな?
伊勢神宮の式年遷宮も、前々回には気にする人はあまりいなかったのに、平成25年には知らない人はいないというような状態になった。
大切なものを思い出そうとしているようだ。

No.05132 24.01.15 愛に傾いている

国の指導者が戦争をしたがっても、フェイクな情報を流しても、一般民衆はもう戦争にはなびかない。
戦争をしようとすればするほど、ボロが露呈している。
一般民衆は愛に傾いている。
冷静に情勢の推移を見つめている。

No.05129 24.01.10 魔法

毎日のように魔法を目の当たりにしている。
でも、当たり前になってしまったことは魔法のようには思えない。
なぜ原子は分子になりたがるのか?
なぜ分子は不安定なはずの巨大分子になっていくのか?
なぜたくさんの巨大分子がタンパク質になるのか?
なぜいろんな種類のタンパク質が積み重なって単細胞生物になるのか?
なぜいろんな種類の単細胞生物ができるのか?
なぜいろんな種類の単細胞生物が協力し合うのか?
なぜ協力し合っていた単細胞生物が多細胞生物になったと思えるのか?
なぜ多細胞生物は進化ののちに社会を作るようになるのか?
なぜ社会を作るようになった多細胞生物は個体間でコミュニケーションを始めるのか?
なぜコミュニケーションが複雑になり、いつしか言葉を生み出すのか?
なぜ言葉によって言葉以前の生命ができなかったことができるようになるのか?
理解できるのは、複雑性が増すと魔法が現れてくるかもしれないこと。
多数決で社会を動かしているうちは、このような魔法はきっと現れてこないだろう。

No.05128 24.01.09 華厳経は何が面白いの?

それには簡単には答えられない。
華厳経にはいろんな内容が精緻に折りたたまれ、比喩となり、こちらの知識を刺激して、解明してくれるから。
例えば、毘盧遮那仏を宇宙と見立てると、現代の宇宙物理学を教わっているかのように思えてくる。
如来や菩薩の会話の構造は、ホロンに関して教えられているようだ。

その内容がなぜ言葉にしにくいのかというと、第一章にあたる寂滅道場会の最後に童子(こどもor青年)が出てきて、仏と会話をし、悟りとはどれだけ素晴らしいことかと話すのだが、その会話はほんの五十行程度で終わる。
華厳経の最終章である入法界品では、文庫本三冊で善財童子がどのように悟っていくかが示される。
その方法は基本的には悟ったといわれる人たちに会って、その話を聞いていくだけなのだが、いろんな人に会い続けるうちに次第と童子の心の中に生まれてくる内容が大きくなっているだろうことが読み手に推測され、書かれていることが理解されるのと同時に、書かれていないことも大きく膨らんでいく。
何度も何度も似た話を繰り返されたりもするが、そのことによって、その内容のわずかな違いが大切であることに気付かされ、そのわずかな違いに注意を払い出すと、その理由が見えてくるようになる。
寂滅道場会の最後に五十行程度で記されていたことが、実は如来になると文庫本三冊分の膨大な知恵になっていることが明確になる。
つまり華厳経で教えてもらうことは、言葉で簡単に教えてもらうことがどれも、実はものすごい時間や空間や人々の会話や、深い知恵によって作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解し、常にそのことを背景にあらゆることを感じるというのはどういうことであるかに目覚めていることとはどういうことかを伝えてくれている。
つまりそれは、どんなに簡単に思える存在でも、実はものすごい時間や空間や生死を通して作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解することであり、それに目覚めた状態で世界と対峙するとはどういうことかを教えてくれる。
だから、読む人によって見えてくるものはきっと違い、その違いがガンジス川の砂粒の数ほど多いのだろうことが理解される。

No.05127 24.01.08 華厳経

昔、僕がまだ大学生の頃、フィリッチョフ・カプラの著書『タオ自然学』にブーツストラップ仮説という論が出てきて、その説明として華厳経のことが書かれていた。
当時は華厳経に関する本が見つけられず、10年ほどしてから古本屋で、筑摩書房の世界古典文学全集の「仏典II」に、抄訳を見つけて読んだ。
前半の抄訳だったが、それだけでも楽しめた。
しかし、いつかは内容を全部を読みたいと思っていた。
2021年に岩波文庫から『華厳経入法界品』が出版された。
それは華厳経の最終章である。
全体の三分の一ほどの文章量らしい。
厚めの岩波文庫で三巻だった。
大変楽しめた。
いろんな気づきがあり、感情を揺さぶられた。
どうしても全部読みたくなってきたが、国書刊行会で出していた口語全訳は品切れになっていた。