No.05042 23.08.17 やなせたかし氏

小学生の頃、うちにあった歌唱集にやなせたかしのイラストが入っていた。
その頃にはテレビにもときどき出ていたし、「手のひらを太陽に」という歌の作詞もしていたから、とても有名なイラストレーターだと思っていた。
アンパンマンがアニメになり、誰でも知る存在になったとき、僕が歌唱集で見た頃は大変だったという話を聞いた。
氏が亡くなる一年ほど前、何かの企画でお金が足りず困っていたとき、知り合いが「やなせたかしさんに会いなさい」と言ってくれた。
理由を聞くと、「アンパンマンが出るまで苦労していたので、困っているクリエイターがいると助けてくれる」というのだ。
お目にかかったこともないのにそんなこと頼むのは良くないと思いお断りしたが、一度は会ってみたい方だった。

No.05040 23.08.07 どうして?

気がつくと、ボクは父さんと母さんと兄さんのあいだで暮らしていた。
どうしてボクは生きているんだろう?
そんなことをときどき思った。
それを考えると堂々巡りで気持ち悪くなった。
そこで父さんに聞いてみた。
「どうしてボクは生きているの?」
父さんは答えた。
「どうしてかな? わかったら教えてね」
母さんに聞いてみた。
「私が産みたいと思ったからよ」
小学校でガキ大将のシンちゃんが、図書館で大人向けの性教育の本を見つけて見せてくれた。
だから、男と女がすることをすると、子供が生まれることは知っていた。
でも、なぜすることをすると子供ができるのか?
小学生のボクには、そのすることが、どうも理解できなかった。
理解はできないけど興奮した。
兄さんに聞いた。
「どうしてボクは生きているの?」
「なぜ生きているのかなんて、わかる人はいないよ」
「え、みんな知らないの?」
「そうだよ」
そんなんでいいのか?
そのまま齢六十を過ぎました。
そんなんでいいのか?

No.05033 23.07.30 寝る

これほど気持ちいいことはない。
特に一昨年末の入院以来、起きて動くことが少々辛い。
なのに運動しないと体力は如実に衰えるので、せっせと自転車で走っている。
でも、本当は寝ていたい。
この暑さで長い時間自転車では走っていられない。
ふて寝する。
時には気絶するように寝る。

No.05028 23.07.20 ドーナツの穴

最近の報道はキシキシいっている。
現実と虚構が馴染んでいない。
報道に多少の虚構が入るのは、ある程度仕方ない。
事実をすべて理解できる訳ではないから。
それにしても現実と虚構が軋んでいる。
たわみが互いを傷つけ合って奇妙な歪みが生じている。
多くの人々はそれに気づかないのだろうか?
虚構の一部になった人は現実に目をつぶる。
その結果、ドーナツの穴のように、ないはずのものが見えてくる。
キシキシ。

No.05021 23.07.11 酷暑のローソン

この暑い中、自転車で一時間ほど走った。
すると眩暈がしてきた。
あわてて自動販売機で冷たい水を買い飲む。
それでも治らない。
やばいなと思っていたら、ローソンがあった。
イートインの場所があるはず。
中に入ってソフトクリームを食べながら涼んだ。
無事に帰ることができました。

No.05017 23.07.07 初・・・

初めてやることはなんでもちょっと嬉しい。
新しいサイトからこのメールマガジンを出すという簡単なことでもなぜかワクワクする。
でも、5,000回もやっていると飽きてくるのは仕方ないこと。
飽きるということがどういうことかを感じて、初々しさを保持するのは一体どうすればいいのか?
死ぬまで探求かな?

No.05014 23.07.04 風の又三郎

宮沢賢治の作品を読んでいる。
今朝は「風の又三郎」を読んだ。
僕が小学生の頃、母が「風の又三郎」の本を買ってくれた。
少し厚い本だったから、宮沢賢治の作品が何作か入っていたのだと思う。
その本は箱に入っており、箱から出したときの表紙の風合いを覚えている。
ところが、その本の内容は全然覚えていない。
母に「読んだ?」と聞かれ、「読んでない」と答えたことを覚えている。
以来、ずっと宮沢賢治の本は読んでこなかった。
敬遠していたと言ってもいいかもしれない。
今朝「風の又三郎」を読んで、なぜそうだったのかがわかった。
思いがけない発見だ。
風の又三郎の冒頭にこういう文が出てくる。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

これを読んだときはなんとも感じなかった。
ところが、この作品の終わりにもう一度同じように登場する。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう

最後の一行がリフレインされている。
これを読んでなぜ僕が宮沢賢治を読まなかったのかが理解でき、同時に涙が流れた。
僕はこの言葉を記憶の底に留めていた。
母が「読んだ?」と聞いたとき、実は僕はすでにその本を読んでいた。
だけど「読んだ」と答えなかった。
なぜか?
「読んだ」と答えたら、必ず母は感想を聞いた。
ところが、なんと答えていいのか分からなかったのだ。
何かが心に引っかかったが、それが何かうまく説明できなかった。
それが説明できないから、読んでないことにした。

記憶って不思議だなと思う。
小説の冒頭を読んでも何も思わなかったのに、終わりになって出てきた、ほとんど同じフレーズを読んではじめて、消した記憶を思い出した。
還暦を過ぎてこれを知ることに深い意味を感じる。
その意味が何かは、とても長い話になるので、いつか別のところで発表する。

No.05009 23.06.28 じょうよまんじゅう

和菓子屋さんで「じょうよまんじゅう」を買った。
うちに帰って相方と食べようとして「じょうよまんじゅう」と言ったら、相方が「じょうようまんじゅうでしょう」という。
「いや、じょうよまんじゅうだよ」
「いや、上に用いると書いて上用饅頭だよ」と言い争う。
結局、どちらも間違いではないことがわかる。
じょうよまんじゅうの「じょうよ」は「薯蕷」と書き、大和芋、山芋、つくね芋たちを「薯蕷」と呼び、それらを饅頭の皮に用いたものを薯蕷饅頭と呼んだそうです。
一方で「上用饅頭」は、高貴な人が食べるお菓子ということで、かつて高級な饅頭をそう呼んでいたことがあるとか。
勉強になりました。