モネの絵に
母の顔は見えずとも
水面に浮かぶ
まなざしの色
No.05233 24.07.02 雨の色
紫陽花に降る雨の色
地面に落ちて
残り香もなく
No.05231 24.06.24 結婚式
甥の結婚式に参列してきた。
大きなチャペルで100名近い人たちに祝福してもらっていた。
披露宴は笑いで溢れていた。
新郎新婦の人柄がよく表れていたいい式だった。
No.05230 24.06.21 雨音
普段は聞き流す雨音。
ときどき耳を傾ける。
いろんな思い出が浮上してくる。
忘れたくない思い出。
とうの昔に忘れたはずの思い出。
そんなこと確かにあったなと思うような思い出。
すっかり忘れて事実か夢か判然としない思い出。
すべてはぼんやりと優しさに包まれた思い出になっていく。
No.05228 24.06.18 待ちなさい
今朝、目が覚める前に夢の中で「待ちなさい」と言われた。
そして続けて「赤ちゃんが生まれます、時を待ちなさい」と言われた。
ちょっとしてから目が覚めた。
なんだったんだろう、さっきのは?
赤ちゃんができるようなことをした覚えはない。
お茶を淹れようと思い、あくびをしながらコーヒーケトルでお湯を沸かす。
急須にお茶の葉を入れてお湯を注ぐ。
うちでは20年ほど、保温できる湯わかしポットを使ってきた。
ところが、平等院から帰ってお茶を飲もうと湯わかしポットから急須に注いで飲もうしたら味がわずかに違う気がした。
なんで味が違うんだ?と思い調べたら、湯わかしポットの内側にカルキがたくさん付着していた。
これが原因かと思い、以来コーヒーケトルで沸かしている。
そうすると、コーヒーケトルでお湯を湧かすほうがいいような気がしてきた。
平等院で飲んだお茶が美味しかったので、お湯の温度を気にするようになった。
湯わかしポットだといつも熱々だが、コーヒーケトルだと適当に調節できる。
でも、平等院での体験がなかったらそんなことをしようとは思わなかっただろう。
時を待つことで何かを受け入れる準備が整うのかな?
No.05226 24.06.15 小鳥の歌声
朝、窓を開けたら小鳥の歌声が部屋に入ってきた。
小鳥の歌声は心地よい。
聞きながら目を瞑ると、また眠くなる。
夢の中で小鳥の歌声を聴く。
夢の中でまた眠る。
No.05225 24.06.09 ホットサンド
三年ほど前にホットサンドプレートを買って以来、月に何度かはホットサンドを作っている。
相方が具材を切ってサンドウィッチに成形する。
それをプレートに詰めて焼くのは僕の仕事。
説明書には中火で片面二分、両面で四分と書かれていたが、それだと火が強いと焦げてしまうし、具材に熱がまわらない。
火加減を調節して、試行錯誤の上、極弱火で片面四分、両面で八分に落ち着いた。
各面の最後の一分で匂いと音で判断し、微妙に火を調節してわずかな焦げ目をつける。
こうすると相方が研究の結果行き着いたてんこ盛りの具材にも熱がまわってよろしい。
アッチッチとなったハムやチーズやトマトやキュウリに挟まれたチーズがトロトロになる。
No.05224 24.06.08 ベランダで読書
読書はずっと書斎で閉じこもってしていた。
そのほうが集中できるから。
目が悪くなってきてベランダで読書するようになる。
目が少し疲れると遠くを見る。
これがいい。
少し休んでまた読書。
No.05221 24.06.02 リフレーミング・ドラマ
うちの相方がよく見ているドラマがある。
それは一人で食事をしていることを淡々と見るドラマ。
例えば、「孤独のグルメ」「ワカコ酒」「晩酌の流儀」など。
さらに孤食とはちょっと違うが、一人でいることを楽しむドラマとして「ソロ活女子のススメ」なんてものもある。
ワカコ酒がBSテレ東である以外はみんなテレ東発のドラマだ。
美味しい店や食べ方の紹介であることがヒットの原因の一つではあるが、これら一連のドラマを僕はリフレーミング・ドラマだと思っている。
かつて孤食や孤独は寂しいというレッテルを貼られがちだった。
ところが「孤独のグルメ」でたった一人で食うことが「癒し」や「自分を取り戻すための時間」になると謳いヒットした。
それで視聴層をちょっと変えて「ワカコ酒」「晩酌の流儀」「ソロ活女子のススメ」ができたんだろうなと想像する。
これらの共通点は食べているとき、または何かを経験しているときに生まれている内語の紹介だ。
内語とは、言葉や文字に表さない言葉のこと。
一人でいる時に頭の中であれやこれやと囁いている言葉のことだ。
一人で食べているとき寂しいと感じる人は、きっとこれらのドラマとは違う内語のやりとりをしているのだろうと思う。
ところが、これらのドラマの主人公たちは、外界で起きている経験についてあまり拘泥せず、食べるとき、そして何かを体験するときに、目の前にあることに没入する。
その没入感が楽しかったり、面白かったりする。
リフレーミング・ドラマの応用範囲は広がるかもしれない。
若者向けに、予備校をスポンサーにして受験をテーマとしたり、年配者が一人で暮らす楽しみ方を表現したり、遠距離介護の体験をリフレーミング・ドラマにしたりできるかもしれない。
No.05220 24.06.01 文章を書くことで得る気づき
大学生の頃まで、僕は文章が下手でした。
どうしても最初に思っていたことと、書いている途中に生まれてきた思いとのあいだに違いが生まれるのです。
最初に「右に行く」と書きたかったはずが、色々と書いていくうちに「左にも行きたい」となり、最後には「右でも左でもいいからとにかく行けばいい」みたいな文章になって、「文章量超過、最初から書き直し」みたいなことがよく起きました。
「だから僕は文章が下手」というレッテルを自分で貼ることになりました。
ところがなぜか、就職して文章を書くようになると、きちんとした文章が書けるようになっていました。
当時の僕には理由がわかりませんでした。
でも「よかった」と思う、書けるのですから。
ライターになって文章を書き、たまたまの巡り合いでヒーリング・ライティングというのを始めました。
そこでリフレーミングを何度もするようになった。
すると、自分の内側に何かムラムラ感というか、モヤモヤ感というか、言語化できない不思議な思いを抱えるようになりました。
「これは一体なんだ?」と思いますが、うまく説明できない。
これを説明するのが僕の挑戦の一つになりました。
幼い頃からいろんな本を読んでいたので、手当たり次第の読書を続けて行きました。
すると、偉大なグルと言われるような人の本に、「自分の内側に何人もの人格がいることに気づき、それを手なずけなさい」ということが書かれていました。
意味不明でした。
気にもしなかった。
ところが、ある時、幾つもの洞察が一つに重なる時が来ました。
すると、自分の内側にいる何人もの人格に気づくことができました。
ずっと僕は「僕」という一人の人間だと思い込んでしたのです。
もちろん肉体は一つです。
でも、そこに宿っている精神は、時には女になり、時には暴漢になり、時には金の亡者になり、時には父になり、時には経営者になり、時には聖者になるような、悪くいうと安定しない、よくいうと可能性をたくさん含んだ精神で、互いに矛盾し、それを無理やり頭のどこかで制御しようと必死にもがいているのでした。
だから、若い頃には文章がまとまらなかったのです。
就職すると、身分をわきまえる必要が生まれます。
そのことが文章をまとめさせてくれていたのです。
何十年も文章を書き、自分の内側の矛盾と付き合ってきたからこそ、それが理解できるようになりました。
そして、その先の可能性もちらちらと見えてきました。

