No.05268 24.08.20 31℃の外出

午前中、31℃のときに自転車で走った。
35℃で走るとトンデモナイが、31℃での自転車行は幼い頃の夏休みを思い出させてくれる。
日差しが肌をチリチリさせる。
日陰に入ると少し涼しい。
肌の表面をうっすらと汗が覆う。
こんな暑さの中、近所のプールにかよった。
売店でおでんを売ってた。
チェリオの味はそこで覚えた。
記憶の底に眠っていたことが浮上する。

No.05266 24.08.17 走る感覚

入院して以来、走れなかった。
かつてなら走って疲れた分、呼吸数が上がったが、ちょっと前まで呼吸数が上がらずに疲れてしまった。
呼吸と筋肉が連動しない感じだった。
この感覚は、以前の僕には理解できないものだった。
一年半くらい前から自転車では、疲れると呼吸が上がるようになった。
二ヶ月前くらいから、散歩の途中で50mほど走るようになった。
走るといっても、若い人がせっせと歩く程度のスピード。
はじめの頃は右足と左足のバランスが取れず、ヨタヨタしていた。
それを何度か繰り返し、今日は三キロ歩く間に100mほど二回走った。
これをしばらく繰り返してちょっとずつ距離を伸ばしたら、一キロくらいは走れるようになるかも。
以前のジョギングのときの爽快さを少し思い出した。

No.05261 24.08.11 淀んだ空気を祓う

日本には「祓う」という概念がある。
英語にすると「exorcise」というらしいが、ニュアンスがちょっと違うように感じる。
「exorcise」は「悪魔を祓う」という意味で、日本の「祓う」には確かに「魔を祓う」という意味もあるけど、必ずしも「魔」や「悪」ばかりではなく、「淀み」や「不明瞭な感覚」も「祓う」ことができるだろう。
つまり「祓う」には、多神教的なニュアンスが埋め込まれており、必ずしも悪くなくても、意見や解釈が複雑に絡み合っていてほぐすことができない状態を落ち着かせることも「祓う」ことになるのではないか。
「exorcise」は祓えたか否かがはっきりとするが、「祓う」は複雑な状況を抱え込んで白黒つけるというよりは、考えるべきことに意図を向けた結果、「よし」と言える状況かどうかが大切で、無理に解決に追い込まなくてもいいような気がする。
日本のあらゆる部分が祓われ、世界に波及しますように。

No.05260 24.08.10 幻想を追う

気持ちいいものを感じるための瞑想をする。
大地に立って何かを動かす。
風のような、波のような、何かを。
爽快だった。
だけど、言語化が難しい。
それは正しくは、風でもないし、波でもない。

No.05256 24.08.06 根源を思い出す

自分はなんで生まれてきたんだろう。
自分は何をしようとしているんだろう。
自分は何をしたいんだろう。
直接思い出せない僕は、気持ちいいものを思い出すことで、らっきょうの皮をむくように少しずつ、根源を思い出そうとしてきた。
根源のまわりについていた皮はかなり落ちた。
認めるのか、そこに現れたドーナツの穴を。

No.05253 24.08.03 新たなリズム

歩くテンポ。
時を刻む振り子。
呼吸の間合い。
心臓の鼓動。
浜辺の波音。
海鳥たちの鳴き声。
潮の満ち引き。
子供の笑い声。
街角を過ぎていく車のノイズ。
キーボードを叩く音。
永遠の循環。
時とともに生まれる干渉。
巡り混ざって新たな命(リズム)に。

No.05252 24.08.01 気持ちいいものを感じると眠くなる

気持ちいいものを感じようと瞑想状態になると、たいてい眠くなる。
いろんなことが一度に起きていることがわかる。
まず、過去の思い出がたくさんある。
それらが一度に浮上する。
全部ではない。
その日によって違うが、いろんな思い出がたくさん一度に思い浮かぶ。
一方で、たくさんの未来が見える。
それはほとんど空想だろう。
そして、いま。
いまのこともたくさん見える。
立場によって違ういろんなことが。
それらが一度に降りかかってくるので、何を感じているのかはよくわからない。
折々に目立つことが浮上する。
そして消えていく。
まるで夢を見ているようだ。
そして、実際に夢に堕ちていくことがある。
現実と夢の境にいるとき、言葉はない。
いろんな出来事が、今までとは違う繋がり方をする。
どんなつながりも、ひとつの命の誕生だ。
すべての出来事が祝福になる。

No.05249 24.07.29 どこを味わうか

知っているんだ僕は、この世界には気持ちいいものしかない。
幼い頃僕は、トマトが嫌いだった。
あの、味があるのかないのかわからない、不思議な味が嫌だった。
それが、大人になったら毎日のように食べている。
一体何だったんだろう?
とてつもなく嫌だったことが、あるとき好きになる。
そんなことはよくあること。
ある一面がとてもOKなら、別の一面はとてもBadで、そのあいだをグレーな虹色が包んでいる。
どの部分を味わうかは本人次第。

No.05246 24.07.24 箱の解剖

思い出すとはどういうことだろうか?
思い出すのは一瞬で、全体を感じる。
そのあとで説明のために細かい部分を言葉にしていく。
ところが、説明に時間がかかる。
だから思い出すことにも時間がかかっているように感じてしまう。
何度も思い出を文章にしていて気づいたのは、僕の場合、思い出すのは一瞬ということ。
この一瞬で思い出の全体像を得ている。
そののちに細かいことをポロポロと知覚していく。
その細かいことは、前提があってはじめて思い出す。
たとえば、昨日書いた不思議な体験のことをマルッと思い出す。
そののちに「バリ島で一緒にいた女性の名は?」と問われれば、思い出すことができる。
だけど、バリ島での思い出と紐づいてない状態でその日の日付を言われて、「その日に一緒にいた女性の名は?」と問われても、いったい誰のことやらさっぱりわからない。
つまり思い出は、箱のような仕切りで仕切られている気がする。
箱が明確になると、中身もはっきりする。
その箱は、不思議な箱で、多次元の形を持つ。
たとえば、「バリ島での鳥の思い出」と言われると、昨日の話のほかに、別のときに体験したことも思い出す。
「バリ島での」を抜いて「鳥の思い出」と言われれば、もっとたくさんのことを思い出す。
だけどいきなり「どんな思い出がありますか?」と問われたら、「バリ島での鳥の思い出」に含まれることを思い出さないかもしれない。
つまり思い出は、集合の帰属と包含のような簡単な関係ではない。
だからそれを普通の箱のように思うと、それは違う。
ある一面から見ると箱のようであり、別の面から見るとネットワークのようである。
だから、不思議で多次元な箱だと思う。

No.05245 24.07.22 箱の秘密

夢で見た箱がなぜ楽しいのか、探究してみることにした。
フタが白くてそれ以外が青い箱で思い出すものは何か?
自分の人生の中では何も思い出さない。
ふと出てきたものは、古代文明の遺物によく出てくる鞄のようなもの。
でも、関係なさそうだ。
次に思い出したのは、チチェン・イッツァに行ったときの不思議な出来事。

今から10年ほど前、チチェン・イッツァに行った。
そこを発掘した一族が建てた建物が改装されてリゾートホテルになっていたのでそこに泊まった。
翌朝、大きな鳥が泊まっていた部屋のガラス窓に当たって死んだ。
屋根のあるベランダが広く、その奥にあった窓までよく鳥が飛んで入ってきたなと思った。
そのまた翌朝、友人から電話があった。
共通の友人が死んだという知らせだった。
共通の友人はかなりのサイキックだった。
ときどき不思議なことを言うと、それにまつわる不思議な出来事が連鎖した。
その友人が突然死んだ。
それでふと、昨日の鳥はそのサイキックな友人が知らせに来たのかなと思った。
すると、その瞬間、感じたことのない感覚がやってきた。
その感覚はあえて言語化すると、「この世界が多次元であることに深く気づけ」とか、「この世界には無限の解釈が存在することに深く気づけ」とか、そんなことを伝えられたようだ。
「なんだ今のは?」と思ったが、それ以外何も起きなかった。

メキシコから帰って、僕は出版パーティーを開いた。
宝生明という別ペンネームでSFファンタジー『太一〜UFOに乗った少年』を書いた、その出版パーティー。
その席上で、水晶画家のAkiraに久しぶりに会った。
メキシコ、チチェン・イッツァでの体験について話したら、急に「やっとわかった」という。
「なにが?」と聞いたら、こう答えた。
「はじめての個展『創世記』に、『タイムマシンの窓より アルバート・アインシュタイン』という作品を描いたんだけど、その裏にさぁ、なぜだかわからないけどこう書いたんだよ」

「きみたちはいずれ
 いくつもの宇宙と
 いくつもの自分に
 気ずく時が
 くるだろう」

「これってさあ、『この世界が多次元であることに深く気づけ』と同じこと言ってるよね」
「確かに」
それで、その絵を後日預かることになった。

チチェン・イッツァでの体験の一ヶ月後、僕はバリ島にいた。
1999年から毎年のようにバリ島のニュピというお祭りに通っていた。
そのお祭りの日、バリ中の人が一日家に籠り断食する。
その日にウブドのプリカレラン王家で、そこの当主と一緒に一日半断食断眠瞑想をした。
僕のブログにその体験について書いていたので、一緒に体験したいという女性からメールをもらった。
バリ島で会ってニュピの前にお話しした。
彼女は瞑想をしたことがないというので、ホテルの部屋で一緒に練習のための瞑想をした。
瞑想のあと、メキシコ、チチェン・イッツァでの体験について話した。
話がほぼ終わり、「この世界が多次元であることに深く気づけ」とか、「この世界には無限の解釈が存在することに深く気づけ」とか、そんなことを伝えられたようだと言ったら、その部屋の窓ガラスがバンッと鳴った。
何かがぶつかったような音。
「これで鳥が窓にぶつかっていたらびっくりだよね」と窓際に行くと、小鳥が一羽、窓の外で死んでいた。

ニュピの日の深夜から断食断眠瞑想を始めた。
翌朝、瞑想していると、目の前のガラス窓にバタバタと音がする。
目を開けると、小鳥がガラス窓にぶつかりながら、こちらに入ろうとしている。
「これはいったいなに?」
しばらくしてその小鳥はどこかへ飛んで行った。
また瞑想を始めると、一時間程して同じことが起きた。
ガラス窓で小鳥がバタバタしていた。
鳥がガラス窓にぶつかって死ぬのを見たのはメキシコが生まれてはじめてだった。
それがバリ島でも同じ体験をし、しかも今度は目の前で小鳥がガラス窓を通り抜けようとして羽ばたいていた。しかも、二回も。

バリから帰るとAkiraに会って、『タイムマシンの窓より アルバート・アインシュタイン』を預かった。
青い幾何学的な曼荼羅を背景に、四つの目を持つアインシュタインが舌を出している絵だった。

この一連の出来事を思い出した。
白いフタの青い箱についての探究はまだ続きそうだ。