五年前、退院して以来、体調が安定しない。
五年も経つのに!
いまだに血圧が上で80ないことがよくある。
100ないと僕にとっては動くのが大変。
その状態で無理に気合いで動くと、あとで動けなくなるので無理はしないようになった。
でも、このことが僕に考える時間を与えてくれる。
このところ朝に特に血圧が低いから文章が書けず、夜に気持ちいいものを書くようになった。
すると、書きながらよく眠ってしまう。
それで発行が真夜中になったり、書けなかったことが何度もある。
でも、そのおかげか、無意識の部分に何らかのインパクトがある気がする。
それが何だとは上手く言えない。
顕在意識ではわからない。
でも、なんかあるような気がする。
このモヤモヤについて書く。
ひとつに もしかしたら、自分の立場を肯定するためにこんなことを考えているのかもしれない。
病気になってまともに仕事ができない、この自分を肯定するために。
その可能性は充分あるし、それを知った上でこのあとの話は書いていく。
退院して以来、眠いときに起きていられなくなった。
以前は五分瞑想すれば、意識ははっきりした。
そんなことを続けたから体調を崩したのかもしれない。
だから、瞑想するとつい眠ってしまうことが恨めしかった。
気持ちいいものを書こうとして眠ってしまうたびに恨めしい。
これは心にはよくないこと。
それは知識としては知っている。
しかし、感情は生まれてくる。
感情を抑えることはできる。
でもね、と思う。
まあいい。
何度も夜に書こうとして書けずに眠ってしまい、恨めしく思って布団に入った。
朝まで無理すると、翌日何もできなくなる。
こんなことを続けながら非二元論について考えを巡らせる。
非二元論について「なるほど」と思ったのは何度もあるが、思い返せば入院の前後からはっきりとしてきたような気がする。
はっきりとはしたが、非二元論を理解するというのは無限と対峙することでもあり、人間の頭では処理しきれない。
それを説明しようとするから元々無理なのだ。
その無理を超越しようとしている。
昔、中村公隆和尚に「声字実相義を読め」と言われた。
はじめて読んだときには「ソシュールと似たことが書かれているな」と思ったが、あちこちでそれとは反することも書かれていた。
だから何と理解してよいかわからなかった。
それ以来、仏典を読む率が高くなった。
あちこちで矛盾している話を理解するのではなく、呑み込んでいった。
あっちにもこっちにも矛盾だらけである。
ちっとも科学的ではない。
だから理解するのではなく、とにかく呑み込む。
「へーそうなんだ」みたいに。
しかし、時間が経つと、「へーそうなんだ」ではなく、「そうだよね」になり、矛盾に感じていたことがどこかわかる気になってきて、あるとき一本の線としてつながり、それが平面をなし、立体になり、立体曼荼羅となり、多次元を空想するようになった。
この多次元の空想が、非二元論の入り口になる。
それに気づくとパズルはガチっと組み上がった。
だけど、すべてを理解はしていないことも理解できた。
この部分は言葉にしようがない。
どこにも存在しない、空想の中にのみ生まれ出るものだった。
今度それを説明しようとする。
それで気づくことがある。
その気づきは、顕在意識だけのものではない。
巡り巡って「そうか」と思うことが生まれる。
その「そうか」は言語化できないので、何度も忘れた。
忘れてはしばらくして思い出す。
それの繰り返し。
それを繰り返すことではっきりしたことがある。
夜に机に向かって眠ってしまい、夢の中でそれに触れ、その出来事を忘れて恨めしく思う。
その繰り返し。
昨日「日刊 気持ちいいもの」を二回発行した。
一度目は「No.05551 26.06.10 考える」。
これは一昨日の夜、机に向かって考えて、一度眠って、目が覚めて書いた。
書きあげたのが午前三時を過ぎていたので、メルマガで配信したのは翌日の昼過ぎだった。
「こりゃいかん」と思い、その日にもう一度、昨日の分の気持ちいいものを夕飯前に書いて送った。
「今夜は早く寝られる」と思い、午後10時には布団に入った。
ところが、午前2時に目が覚めてしまった。
トイレに行ってから机に向かう。
「なんで机に向かうんだ?」と思ってからふと気づくと午前5時。
空が明るくなり始めていた。
あわてて布団に入った。
そこでじんわりと感じる。
今まで出会ってきたことや人への感謝の念。
そして、これが天命だったのかという思い。
朝にいつも来てくれるメジロが鳴き出した。
No.05552 26.06.11 ここいなり
ある日、相方が「いなり寿司を食べたい」と言うので、近所で売っている店に自転車で行った。
おやすみだった。
スーパーやコンビニのいなり寿司は嫌だったので、スマホで検索した。
すると、いなり寿司専門店が要町にあった。
いなり寿司の専門店など聞いたことがなかったので興味津々で行ってみる。
小さな店で、いなり寿司しか売ってない。
ここまで無駄を削ぎ落とせば上手く営業していけるだろう。
六種類のいなり寿司を一セット買って帰った。
赤酢いなり(プレーン)
梅ひじき
わさび
しょうが
ちりめん山椒
五目
の六種類。
二人で半分こして食べた。
もっと食べたい。
一週間後、また自転車でせっせと走り、六種類二セットを買う。
No.05548 26.06.05 Fade Into Light
ボズ・スキャッグスの「Silk Degrees」から「Some Change」くらいまでのアルバムを昔よく聞いていた。
きっかけは「Middle Man」の「Simone」という曲。
広告会社に勤務していたとき、その曲をテーマ曲にしていたラジオ番組があり、ラジオ担当として思い出の曲なのだ。
何年も前に「Speak Low」をCD店で見つけて、渋いスタンダードを歌うようになったかと思っていた。
最近Spotifyで音楽を聴くようになり、ボズのアルバム「Fade Into Light」を見つけた。
聴くと一曲目でノックアウトされた。
「Silk Degrees」に入っているヒット曲「Lowdown」をスローで歌っていたのである。
思い出の「Simone」も落ち着いた雰囲気になっていた。
刺さるなぁ。
No.05544 26.06.01 メジロ
毎朝、そして一日何度も近くに来て鳴いている鳥がメジロだとわかった。
ベランダの前にある木に止まり、鳴いているのを写真に撮った。
「可愛い」と漏らしたら、相方に「私にはそんなこと言わないのに」と叱られた。w
でも、メジロにしては少し複雑な鳴き方をしているように思う。
何年もバードコールを鳴らしてきたので、その音に合わせてきたのかもしれないと考えるが、「そんなことはないだろう」と自分で打ち消す。
でも、もしそうだったら、いっそう可愛い。
あ、しまった。w
No.05535 26.05.07 忘れること
歳をとってからだが思うように動かないことに直面するたびに「昔は良かったな」と思う。
が、しばらくすると忘れる。
「昔はよかったな」を忘れると、気持ちがグレーになることはない。
今日も元気に生きていける。
老いたからだという新しい体験を味わっている。
No.05534 26.05.05 GWのサイクリング
いつものように都内をサイクリング。
いつもより道がすいている。
車が少ない。
GWだから?
ガソリンが高いから?
スイスイと走れてよかった。
No.05533 26.05.04 スズメの水浴び
歩いていたら、目の前の水たまりにスズメが飛んできて、羽を震わせて水浴びを始めた。
一歩踏み出せば踏み潰してしまうような場所で。
人間はそんなことしないとわかっているようだ。
クマやシカもそう思って人里に出てくるのかも。
信頼してもらうのは嬉しいけど、危害は加えないでほしい。
水が跳ねてきたよ。
No.05530 26.04.28 一緒にいる
特に何もしないけれど、一緒にいられるのはいい。
話があるわけではないけど、別のことをしているけど、それでもそばにいる。
時々相手の様子を見たりして。
No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)
大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。
No.05519 26.04.10 桜吹雪に見るもの
桜吹雪が流れると、その美しさにうっとりする。
いろんな思い出が重なる。
どれだけの花見をしただろう?
どれだけの人と一緒に見ただろう?
そのほとんどは忘れてしまった。
その断片が蘇る。
桜吹雪のずっと先に、もう会えない人の姿を見る。
うっとりとする桜色の風の向こうに。

