ふと、クスコを思い出した。
ペルーの都市ではなく、クスコというエレクトリックバンドがあった。
1980年頃、よく聞いていた。
あの頃はシンセサイザーが楽器として確立してきた頃で、クスコはシンセサイザーでペルーのパンフルートのような音を多用して、南アメリカの雰囲気を出していた。
日本をテーマにした曲も何曲かあった。
ネット上でさがして久しぶりに聞いた。
No.05038 23.08.05 農民芸術概論綱要
宮沢賢治の論文。
以下に序論を引用する。
序論
……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
宮沢賢治著 農民芸術概論綱要
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
大乗仏教の基本的考え方が表現されている。
大乗仏典はすでに聖徳太子の頃に日本に来ていた。
日本人の考え方の根底に、このような感覚があることを誇りに思う。
No.05037 23.08.04 人類がみんな幸せでありますように
どこかでは戦争をしていたり、どこかではその準備をしていたり、どこかでは大いなる矛盾が露呈し、いい加減やめてくれといいたくなったとき、
人類がみんな幸せでありますように
と祈ってみる。
なんかスッキリするよ。
No.05036 23.08.03 三経義疏
昔、日本史で聖徳太子が仏教について書いた本が三冊あり、それらを三経義疏と呼ぶと習った。
その三冊は法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏だという。
中央公論の「日本の名著第二巻」が聖徳太子の巻で、この三冊が一部略されてはいるが、掲載されている。
「昔習ったな」と思い、ニヤついて拾い読み。
No.05035 23.08.02 雷が落ちて土砂降り
昨日の昼、雷が落ちて土砂降りになった。
雨があがると涼しくなった。
久しぶりに30度以下だった。
土砂降り、エライ。
雷、素敵。
できれば、毎日小出しにしてください。
No.05034 23.07.31 日光燦々
空からはいつになく強い日の光が燦々と照り続ける。
これだけ光り輝くのは何かいい兆候かもしれない。
体調を感じながら、浴び続けるのはいいだろう。
意識の門が開くかも。
No.05033 23.07.30 寝る
これほど気持ちいいことはない。
特に一昨年末の入院以来、起きて動くことが少々辛い。
なのに運動しないと体力は如実に衰えるので、せっせと自転車で走っている。
でも、本当は寝ていたい。
この暑さで長い時間自転車では走っていられない。
ふて寝する。
時には気絶するように寝る。
No.05032 23.07.26 21世紀の資本
遅ればせながらトマ・ピケティの「21世紀の資本」映画版を見た。
とてもわかりやすくまとまっている。
このままの資本主義を続けていくとどのように問題になるのかが浮き彫りにされていた。
本の日本語訳が出版されたのが2014年の12月で、騒ぎになったのは2015年だったのだろうけど、今こそ見直すべき内容だと思う。
再分配の不平等が行き詰まると戦争が始まるという轍をまた踏むのだろうか?
No.05031 23.07.25 生と再生
一週間ほど前に宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見た。
とても面白かったが、あの映画で何を伝えたかったのか、はっきりとはわからなかった。
ところが今朝起きたら、「あれは『生と再生』だ」と思った。
それはミルチャ・エリアーデの著書。
副題が「イニシエーションの宗教的意義」。
「君たちはどう生きるか」というタイトルからもわかるが、この作品は成人儀礼に関するニュアンスが含まれている。
つまり「大人になるとはどういうことか」を伝えている。
だけど、かつての古めかしい価値観を伝えるようなことを宮崎駿はしない。
しかも、成人儀礼を突き抜けて、超自然者への参入を促すイニシエーションにも思える。
成人儀礼は一般的な社会観、道徳感、宗教観、性道徳などを授けるが、超自然者への参入では、その修練を受ける準備としておこなわれる。
色々と説明すると長くなるので、『生と再生』のなかで、なぜこれが宮崎駿の「君たちはどう生きるか」とつながるのかを説明していると感じる部分を引用する。
以前にも述べたように、加入礼は正しく人生の核に横たわっている。そして二つの理由から、この見方は正しい。第一は、正しい人生とは、深刻な危機、責苦、苦悩、自我の喪失と再確立、死と復活を含意するからである。第二の理由は、ある程度仕事を成就したにしても、ある時点では万人がその人生を失敗と見るという点である。この幻想はその人の過去に対してなされる倫理的判断からではなくて、その召命(天職)をとりにがしたとの漠然たる感情からおこるのである。 つまり、その人は自らのうちにある最善なるものを裏切ったという感情である。こうした全面的な危機の時点で、ただひとつの希望、人生をもう一度始めからやり直すという希望だけが、ある成果をもたらすように思われる。要するに、このことは、こうした危機に見舞われている人は、新しい、再生された生活を充分に実現し意義あるものにしようとの夢を持つことなのである。それは宇宙が更新されるように、万人の魂が季節的にみずから更新されるといった漠然たる希求以外のもの、それを遥かに超えるものである。こうした八方塞がりの危機に際する希求や夢は決定的で、全体的なレノバティオ(renovatio)=生命の変革できる更新を獲得することである。
M.エリアーデ 堀一郎訳 『生と再生-イニシエーションの宗教的意義』 東京大学出版会刊
現在の子供が成人したとき、どんな職業が存在するのかよくわからない社会で生き延びるためには、あのアニメに含まれていたような感覚が必要となるのだろう。
No.05030 23.07.23 スローモーション
水が跳ねる瞬間とか、ものすごく動きが早いもののスローモーションを見るのは楽しい。
目では追うことができないような変化を丁寧に見ることができる。
世の中は効率化が大事だとされるが、思いっきり丁寧にゆっくりとやったら、それはそれで楽しいのではないだろうか?
コミュニケーションも、効率化をめざして途中を飛ばすようなのはAIにまかせて、ゆっくりと丁寧にやりとりすることで、今までにない何かを生み出すような部分を人間が務めればいいのではないだろうか?
難しい課題を丁寧にやりとりすれば、無理に戦争なんかしなくてもよくなるのではないだろうか?
なにごとも慌てるのはよくない。

