僕たちは貴重な存在に取り囲まれている。
あまりにも当たり前になってしまったため、見えなくなってしまったその尊さ。
とても高い価値を持ったものしか残らない世界。
そんな世界の中で生かしてもらっている。
「当たり前」と思うか「尊い」と思うか。
それは自分に委ねられている。
No.04719 22.03.12 味わい直す
気持ちいいものを文章にするというのはどういうことかというと、そのひとつは「味わい直し」なのだ思う。
人は、いろんな状況でいろんな体験をする。
たとえば、失恋のあとにどんなにおいしいものを食べても、おいしくは感じられなかったりするだろう。
だけどもし、失恋の感情から解放されて、気分のいいときに同じものを食べたら、とてもおいしく感じるかもしれない。
それに似ている。
気持ちいいものを書くことで、気持ちいいものの再体験をする。
ただ文章を書くだけだと再体験にはならないが、文章を書きながら、その体験をまざまざと思い出していくと、新たな体験となる。
すると、かつてした体験がみずみずしくよみがえる。
ことによっては、気持ちいいと感じなかったものも、そう感じるようになる。
それを通して何を見つけるか。
それが大切なんだなと、理解できるようになった。
No.04716 22.03.08 理解し得ないもの
理解し得ないもの、それが「いのち」。
どんなに単純な構造をした「いのち」でも、誰もその全貌を理解し得ない。
理解すれば理解するほど謎が増える。
掘れば掘るほど掘るべき先が現れてくる。
いつまでも永遠に絶えることなく掘ることを楽しめそうだ。
No.04712 22.03.03 もうすでにある
遠くの人とも自由に会話できる。
知りたいことはほとんどなんでも知ることができる。
食べたいときに食べたいものを食べようとすれば食べられる。
いま欲しい物といったら、ほぼなんでも手に入っていて、特に必要でもないものを贅沢品として追いかけている。
そんな幸せな世界になってきた。
このことに目を覚まさなければならない。
いま体験している現実がもったいない。
それを知った上で、社会的に起きている事件を眺めると、もっとどうにかなるだろうとしか思えない。
「どうにもならない」と思わされているように感じる。
答えはすでにあるのに、目隠しをされているようだ。
No.04703 22.02.09 すべてを知る必要はない
ジャイナ教のマハーヴィーラがこんなことを言ったようです。
人間は神様のように全てを知ることはできないので、一部のことしか知りようがないと諦めなさい。
それを知った上で、修行する人は、全てを知るためにいろんなことを学んでいくんですね。
それでも神様のように知ることは難しい。
No.04700 22.02.02 渡辺満喜子さんの歌
ヴォイスヒーラーの渡辺満喜子さんと親しくしていただいていた。
あるときは江ノ島のお宅でテキーラを飲みすぎたり、化粧品の原料となる大麻畑で満喜子さんが歌い、僕がディジュリドューを吹いて伴奏をしたり、万喜子さんのヴォイス・ヒーリング・セミナーにも何度か参加させてもらった。
満喜子さんの歌を聞くと、ときどきゾクゾクッと寒気のすることがあった。
そのことを満喜子さんに聞いたことがある。
「つなぶちさんは霊的な感覚を寒気で感じるのかもね」
そう言われて、なるほどと感じた。
No.04692 22.01.23 バシャール
会社勤めをしていた頃、本屋で不思議な本を見つけた。
『バシャール』と題されたその本は、ページを開くとワープロの原稿をそのまま印刷していた。
当時のワープロは斜めの線がなめらかではなく、ギザギザになっていた。
つまり、当時の普通の本の作り方をしていなかった。
「なんでこんな状態の本を売るんだ?」とかえって興味を持った。
読むと、面白いと同時に不快にもなった。
何度も途中で中断し、しばらくしてまた続きを読むということを繰り返した。
読み終わるのに一年くらいかかったと思う。
読むとわかったようなわからないような、モヤモヤした感じが続く。
ヌミノーゼとはちょっと違うかもしれないが、その入口に立っていたのかもしれないと、いま感じる。
No.04691 22.01.22 ガムランを聴く
大学生の頃、「題名のない音楽会」で小泉文夫がケチャを紹介していた。
世の中には不思議な音楽があるもんだなぁとそのCDを探して買おうとした。
ところが見つからず、同じバリ島の音楽ということで、ガムランのCDを買った。
うちに帰って聞くと、最初の音でゾーッと鳥肌が立った。
「なんだこの音楽は!」と思い、ラックにしまった。
「こんな気持ちの悪い音楽はもう聴かないだろう」と思っていたのだが、なぜかときどき聞きたくなる。
聞いてはゾッとしてまたしまう。
「いったい何をしているんだろう?」と思っていた。
このゾッとした感じが、ヌミノーゼだと理解するのは十年以上過ぎてから。
縁があり、そのガムラン楽団を率いていたプリカレラン家にホームステイさせてもらうようになってからだった。
No.04690 22.01.21 聖なるものと幽霊
聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。
No.04683 22.01.13 聖なるもの
人は聖なるものに触れて動かされる。
その感情はなかなか表現しにくい。
オットーという神学者はそれをヌミノーゼと言った。
科学的にものを考えるようになり、聖なるものに触れる体験を忘れかけているかもしれない。
これからしばらく僕なりの、聖なるものとの接触について思い出してみようと思う。

