外国人旅行客が増え、渋谷も京都も街がゴミだらけにされているとニュースショーで伝えていた。
住んでいる人にとってはとても迷惑なことだろう。
それを見て思い出したのが、世界の多くの学校では生徒には掃除をさせないという話。
統計を取って調べたわけではないが、何かでそうなんだと聞いた。
多くの外国人にとって「掃除をするのは下層の人」という意識があるのかも知れない。
フランスの会社の日本支社に勤めていた友人が、フランス人がトイレを使ったあと、ひどく汚れているので「なんでだ」と聞いたそうだ。
質問されたフランス人はこう答えた。
「掃除する人の仕事を奪ってはいけないでしょう」
ここから推論すると、客人達は日本が美しいのは、ゴミ掃除をする人がたくさんいるからと思っているのかも知れない。
それは違うことを客人達に伝えたほうがいいだろう。
僕の母は、僕がゴミを出すと「よこしなさい」と言って、そのゴミを鞄に詰め込んで持ち帰っていた。
客人達はそのような感覚が理解できないのだと思う。
美しい日本、茶道や華道を生み出した日本を本当に味わいたいなら、その心も知るように、僕たちが言語化して伝えていかなければならないようだ。
No.05234 24.07.03 令和6年7月3日朝の夢
またまた説明しにくい夢を見てしまった。
正しく順番に説明することはできそうもないので、説明できるところからしていくと、こんな感じになる。
人間は自分を認識するのに、環境との関係をほとんど考えないが、自分の考えや思いが、環境からも生まれてくることは明らかだ。
つまり古代に生まれていれば、科学的な考えを持てる人はほとんどいなかった。
だけど、科学的な現代に生まれれば、容易に科学的な考えを得ることができる。
そこで問題が生じる。
今生きている自分が、過去に生きていたであろう人より優れていると思い込むこと。
その思い込みはまだ許容できる。
比べる土俵が整うことはないから。
しかし、その思考の延長線上に問題を生み出す思考が生まれる。
現代の科学をほとんど理解している人が、それらを理解しない人より優れていると考えること。
これがなぜ問題か?
人間は、すべての知恵を得ることができないから。
より理解した者が、理解できない者を差別する。
このような幻想を持ってしまうから。
どのような理解を持っていようとも、その理解は限定的なものでしかない。
ニュートンは宇宙を理解したと思ったかもしれないが、アインシュタインによってそれは幻想だったことがはっきりとした。
同様に、どんな智慧も、知れば知るほど奥行きが生まれてくる。
宇宙に対して謙虚にならざるを得ない。
どんなに知的な人間でも、宇宙の知には敵わない。
にもかかわらず、人間は知的に劣ったものを見下す傾向がある。
それの何が問題かは、ここまでの話が理解できた人には色々と思い浮かぶだろう。
どんなに崇高なことを考えていても、何か行動しない限り、その考えは存在しないも同然だ。
つまり、崇高なことを考えた人は、それを表現しなければならない。
文字にしてもいいし、絵にしてもいいし、音楽にしてもいいし、行動してもいいし、新たなメディアを作ってそこに表現してもいい。
崇高な考えほど、理解してもらいにくい。
簡単に理解してもらえる考えは、すでにたくさん存在しているだろう。
だから、崇高な考えは孤立しがちだ。
それが個人の内側に生まれても、理解してもらえないことで失われていくことが、過去にどれほどあったことか。
今生まれている崇高な考えは、その多くが、現在の環境がこのようだからこそ生まれたものが多いはず。
同様に、古代における崇高な考えは、古代の環境の中にいないと理解しにくい。
だから、僕たちは古代の遺跡がなぜ作られたのか、わからないことが多い。
つまり、自分が形作っている考えは、自分が作っただけではなく、今ある全存在との相互関係から生まれてきている。
しかし、それであっても宇宙の知には敵わない。
人間が持つ崇高な考えは必ずアップデートされるはず。
ここまでは、誰でも理解できる常識的な話だが、ここから先が夢の話だ。
あくまでも僕の夢なので、事実かどうかは問わないでほしい。
世界を掌握したと考えている一握りの人たちは、さらなる知を求めて、試験や実験を繰り返す。
しかし、知れば知るほど知りようがない知恵がどこにあるかを知ることになる。
生命はなぜ存在するのか?
これは誰も知りようがない深遠な謎だ。
知の誘惑に駆られた学者は不遜にもその謎に挑戦する。
その結果、何が起きたのか。
自らが優秀だと考えているグループが、劣っていると思い込んでいるグループに対して、してはならない実験をする。
それが明確に現れたのがタスキギー梅毒実験。
1997年5月にクリントン大統領が謝罪して明るみに出た。
1932年から1972年まで行われたと言われている。
アラバマ州タスキギーにて、アメリカ公衆衛生局が梅毒の臨床研究をした。
公には「Bad Blood(悪い血液)」の治療のためとしていたが、実際にしていたことは「もし梅毒を治療しなかったらどうなるのか?」。
これを黒人を対象に研究した。
実験対象になった黒人たちは治療を受けていると思わされていた。
そして実際には、すでに罹患した、または人によっては罹患させられた梅毒に対して可能である治療を受けることはなかった。
これがアメリカにおいて、黒人がなぜワクチンを打ちたがらないかの大きな理由の一つだ。
そのようなことが現代でも起きないとは限らない。
遺伝子の謎はとても深い。
そう簡単に解き明かすことはできない。
それをどうしてもしたいと考える一握りの人間が、自らを優れた存在だと考え、劣った存在を犠牲にしてもそれを解明するのは、優れた存在の義務だと考える。
そのような勘違いが起きているのではないか?
このような考え方は勘違いである。
なぜなら、現在人間が持ち得ている知識は、時が経てば更新されていくべき、浅薄なものでしかないから。
AIが完成すれば絶対的知恵が生まれるというのも勘違いだ。
人類はさらに深甚な、人間の頭脳では整理しようのない、広大な知恵へと導かれていくだろう。
そのときはじめて、現在持ち得ている知恵が、浅薄であったことに気づく。
そして、その浅薄な知恵に導かれてそれをAIによって拡張し、地球に適応させるなら、人類は滅びて当然だろう。
人類だけではなく、地球上の生命がすべて絶滅するかも知れない。
そうやって絶滅した生命が今まで全宇宙にどれだけ存在したのだろう?
その危機を乗り越えた存在は、まだごく少数で、そのような文明はそれを他の星に伝えたいとは思うかも知れないが、実際には伝えることができないので、ただ見守るしかない。
なぜ見守るしかないかといえば、それを理解する概念を生み出していない生物には、どうやっても伝えられないからだ。
言葉を持たない猿に、愛を伝えようとしても無駄なのと同じように。
だから、今ある存在を大切にして、少しずつ前進していくしかない。
環境を育て、自分のビジョンを育て、それに関わる他の存在と一緒に育ち、新たなる概念を生み出していく。
こういった夢を、わずかな時間に、多次元的に見た。
No.05225 24.06.09 ホットサンド
三年ほど前にホットサンドプレートを買って以来、月に何度かはホットサンドを作っている。
相方が具材を切ってサンドウィッチに成形する。
それをプレートに詰めて焼くのは僕の仕事。
説明書には中火で片面二分、両面で四分と書かれていたが、それだと火が強いと焦げてしまうし、具材に熱がまわらない。
火加減を調節して、試行錯誤の上、極弱火で片面四分、両面で八分に落ち着いた。
各面の最後の一分で匂いと音で判断し、微妙に火を調節してわずかな焦げ目をつける。
こうすると相方が研究の結果行き着いたてんこ盛りの具材にも熱がまわってよろしい。
アッチッチとなったハムやチーズやトマトやキュウリに挟まれたチーズがトロトロになる。
No.05218 24.05.29 ジェフリー・ヒントン
人工知能の第一人者といわれ、トロント大学名誉教授のジェフリー・ヒントン氏が、Googleでの職を辞し、フリーになって、人工知能の危険性について語り始めた。
BBCや日経アジアのニュースサイトで、別のインタビュー記事を読むことができる。
大雑把に言えば、AIが人間の知性を抜く日は近い。
それに備えなければならない。
BBCには特に「このままAIの開発競争が続けば人類存亡の危機に直面するだろう」と答えている。
「まさか、ターミネーターじゃあるまいし」と思う人は多いと思うが、僕は複製子の挙動を考えに入れると、そうなって然るべきだとずっと思ってきた。
遺伝子は複製子、言語も複製子、そしてAIも複製子だ。
複製子はいずれも最初に生まれる環境に大きな影響を受け、その影響から次第に発達していく。
AIが生まれる環境を変化させない限り、人類は苦しい状態に陥るだろう。
この説明に「ヌースフィアってなに?」を使っている。
大切なポイントは、競争を経済活動の中心から手放し、戦争をやめること。
でも、BBCや日経アジアの記事自体が、AIの作り物だったらどうしよう。w
No.05214 24.05.22 メッセージ
「メッセージ」というSF映画を久しぶりに見た。
地球上に12箇所、謎の宇宙船が飛来し、ただ黙って宙に浮いている。
その様を見て、人類が何を始めるのかがこの映画の内容。
主人公の言語学者が、異星人の言語を解読していくにつれ、特殊な能力を開いていく。
ホロンとしての言語についてこのところ考えていたので、公開時には受け取れなかったメッセージがなんとなく降りてきた。
それは言霊がどんなものかという示唆。
No.05212 24.05.19 文字に真理は宿らない
この宇宙に存在するものは、すべて刻一刻変化している。
その変化はとても些細なもので、なかなか気づきにくいものかもしれないが、変化し続けていることは確かなことだ。
例えば、僕たちはいつも同じ場所にいると思いがちだが、宇宙的に見れば常に移動している。
地球は自転しているし、太陽系は回転しているし、銀河系も回転していて、いっときも同じ場所にいることはできない。
自分の体も変化してないようで刻一刻と変化している。
細胞が新しく生まれる一方で死にいく細胞もある。
人間の関係もどんどんと変化する。
社会も実は変化している。
数え切れないほどの変化の中で、僕たちはその変化にあまり気づかないし、気にもしていない。
そのような世の中で、言葉が果たして同じものであろうか?
文字やことばは固定されるが、そこに内包する意味は、その読み手によってどんどん変化していく。
その変化は、メディアが多様になったおかげで、加速度を増して変化している。
だから、文字やことばに真理はさらに宿りにくくなってきた。
そのことを知った上で真理を求める。
真理はきっといつも新鮮なものだ。
No.05210 24.05.15 おつりの一円
朝の散歩を再開した。
途中のパン屋さんで朝食を買おうと思い、小銭入れに千円札を入れたが、ほかの小銭がなんにもなかった。
以前なら千円あれば足りたけど、朝の散歩をしなくなって三年はたつ。
値上がりして足りないと困るなと思い、もう千円小銭入れに入れようと思うが手元にあったのは一万円札だけ。
一万円札で払ってお釣りをもらうと、九千円分のお札は小銭入れに入れにくいから嫌だなと思う。
でも、手元にないから仕方ない。
小銭入れに千円札と一万円札を入れて散歩に行く。
パン屋さんに着き、いつものように三、四個のパンを買う。
レジでの店主との会話。
「最近暑いね」
「まだ五月なのにね」
「夏になったらどうなるんだろうね、去年みたいの嫌だね。はい、合計1110円」
しまった千円を越えてしまったと思った次の瞬間。
「今日は五のつく日だから10% offで、999円」
千円札を出すと一円のおつりが来た。
No.05209 24.05.14 枇杷
この季節になるとあなたのことを思い出す。
毎年のように実をつけてくれた庭にあった枇杷の木。
肥料も何もあげなかったから、妙に酸っぱいその味。
でも、それが好きだった。
普通に売られているどんな枇杷も、あなたの味には敵わない。
幼い頃に食べた枇杷の種を庭に吹いたら木になった。
20年ほどして実をつけた。
四十過ぎで引っ越すとき、あなたを連れて行くことはできなかった。
今でもそれを悔いている。
ごめんね。
No.05207 24.05.10 奇跡的なこと
ある人に「奇跡が好きなんですね」と言われた。
好きなのかなぁ?
ときどき「そういう話って気持ち悪い」という人がいる。
そういう人には奇跡的なことが起きないのかな?
起きてもきっと気持ち悪いので忘れるのかな?
好きかどうかはわからないけど「そんなこと、起こるわけないでしょう」ということがときどき起きる。
あまりにも不思議なのでその話を誰かにする。
それって、僕が好きだから起こしているのだろうか?
無意識の作用で?
もしかしたら、そうかもしれない。
だって、そういう話にワクワクするから。
No.05200 24.04.25 うまい文章
「この文章、うまいと思う?」
そう聞かれるとたいてい答えに困る。
文章の巧拙にはいろんな尺度がある。
すべての尺度をクリアする文章はないと言っていいだろう。
例えば、物理学者が書いた文章があったとしよう。
内容は専門性の高いもの。
近い分野の科学者ならスラスラと読めるかもしれない。
でも、専門知識が欠けている人にとってはとても読みにくい文章になるだろう。
つまり、読者が変われば、その文章の巧拙の基準も変わる。
そこで言われるのが「一般的読者にとって」という言葉。
これもまた難しい。
一般的読者ってどんな読者だろう?
雑誌の場合は「その雑誌を買うような興味・関心を持っている人」と、ぼんやりとではあるが読者を想定できる。
例えば車をテーマにした雑誌なら、「馬力」「トルク」「ホイールベース」なんて言葉は何の説明もせずに使うことができる。
でも女性誌にこれらの言葉を使うときには多少の説明が必要だろう。
だから、「僕にとってのうまい文章」は、スラスラと読める文章であるが、それが果たして他人にとっても読みやすい文章かどうかは、その人による。
そこで一般読者向けの文章は「中学生でもわかる文章」を書きなさいと言われることがあるけど、それだと説明がくどくなって読みにくくなることがある。
本当にうまいと感じる文章は、僕個人に当てられた手紙やメールで、何の澱みもなく読める文章が届いたときには「うまいな」と思う。
それはつまり書いた人が、僕の興味や理解していることをある程度把握していて、僕のために書いてくれた文章だから。

