十円玉の表面にデザインされている宇治の平等院。
別名鳳凰堂。
建物の美しさに惹かれ、小学生の頃にプラモデルを作った。
阿弥陀如来のお顔が建物の正面から見えるように穴が開いていた。
50年以上の時を経て、訪ねてみた。
正面に立つとプラモデルと同じように、穴から尊顔を拝することができた。
堂宇に入れていただき、如来様の正面に立つ。
見上げると天井の装飾から黄金の光が降り注ぎ、極楽浄土に招かれたようだ。
母方の家系は阿弥陀様に帰依する宗派の僧侶だった。
母が幼かった頃、僧侶である父親から聞かされたという話を思い出す。
いい供養になったと思う。
No.05207 24.05.10 奇跡的なこと
ある人に「奇跡が好きなんですね」と言われた。
好きなのかなぁ?
ときどき「そういう話って気持ち悪い」という人がいる。
そういう人には奇跡的なことが起きないのかな?
起きてもきっと気持ち悪いので忘れるのかな?
好きかどうかはわからないけど「そんなこと、起こるわけないでしょう」ということがときどき起きる。
あまりにも不思議なのでその話を誰かにする。
それって、僕が好きだから起こしているのだろうか?
無意識の作用で?
もしかしたら、そうかもしれない。
だって、そういう話にワクワクするから。
No.05206 24.05.09 帰ろう
友人が癌になった。
悪いやつじゃないけど、癖のあるやつ。
妹の言によると余命数ヶ月だとか。
げそげそに痩せてた。
「なんとかする」というが、なんとかなるんだろうか。
知っている治療法はいくつか教えたけど、本人が強い信念を持ってないと継続は難しい。
たまたま藤井風の「帰ろう」というOfficial Videoを見た。
慰められた。
No.05205 24.05.08 人生のメリーゴーラウンド
久石譲が作曲した「ハウルの動く城」のテーマ曲。
このワルツを聞くととても切なくなる。
そもそもワルツは僕の中では比較的「切ない系」音楽が多い。
きっと二つに割り切れないからかも。
二元論に持ち込むと、全てのことは善と悪に分けられてしまう。
でも、それがまやかしであることは明確だ。
いろんな事情によって、ある視点から見るとより善的に見えたり、悪的に見えたりするのであって、絶対的善や悪があるのではない。
このところ五拍子の曲が増えてきたり、インドの曲に11拍子とか、13拍子のような変拍子が多いのは、この世界が割り切れないことを表現しているのかも。
No.05204 24.05.06 一日遅れの菖蒲湯
昨日、どうしても「気持ちいいもの」が思い浮かばず、夜に瞑想していたら眠ってしまった。
気付くと0時を過ぎていて、「しまった」と思いながら「日刊 気持ちいいもの」を書くのを諦め、寝る準備をした。
歯を磨こうとお風呂の脱衣所を兼ねた洗面室に行くと、菖蒲の束が置かれていた。
相方が五月五日に菖蒲湯に入れるように準備していてくれていた。
僕が無駄に頑張らなければ、菖蒲湯に浸かって気持ちいいものが書けたろう。
一日遅れの菖蒲湯は身に沁みた。
No.05203 24.05.04 アイデアのつくり方とあるがまま
昔、何十年も前、『アイデアのつくり方』という本を読んだ。
とても薄い本で、あっという間に読めたことを覚えている。
だけど書かれていたことはとても貴重で、その通りにやると確かにアイデアが生まれてきた。
ざっくりと書くとこんな話だ。
まず、アイデアを作りたい分野の情報を集める。
その情報を徹底的に知悉する。
アイデアを作るためにあれこれ悩む。
そして数日、アイデアについて考えるのをやめる。
すると、ぽっかりとアイデアが浮かぶという。
僕はこれを何回か体験している。
この「アイデアについて考えるのをやめる」とき、静寂が訪れる。
昨日書いた「あるがままのものをあるがままに見るとき、現れてくる静寂」と似ている。
No.05202 24.05.03 あるがまま
「あるがままのものをあるがままに見よ」
よく言われる。
でも、僕にはできない。
どんなものも過去からの色眼鏡で見てしまう。
そうしないと何も言えない。
言葉は過去の解釈から生まれる。
あるがままのものをあるがままに見るとき、現れてくるのは静寂ばかり。
No.05201 24.05.02 力を抜く
亀の子束子で鍋を磨くとき、力を抜く。
歯ブラシで歯を磨くとき、力を抜く。
うまい文章が書けないと思ったとき、力を抜く。
恋人との関係がうまくいかないと思ったとき、力を抜く。
仕事がうまくいかないと思ったとき、力を抜く。
「できない」と思うのは、すでにできることを知っているから。
「できない」と思うことで余計なところに力を入れてしまう。
できているんだから、力を抜こう。
手を抜くことなく。
No.05200 24.04.25 うまい文章
「この文章、うまいと思う?」
そう聞かれるとたいてい答えに困る。
文章の巧拙にはいろんな尺度がある。
すべての尺度をクリアする文章はないと言っていいだろう。
例えば、物理学者が書いた文章があったとしよう。
内容は専門性の高いもの。
近い分野の科学者ならスラスラと読めるかもしれない。
でも、専門知識が欠けている人にとってはとても読みにくい文章になるだろう。
つまり、読者が変われば、その文章の巧拙の基準も変わる。
そこで言われるのが「一般的読者にとって」という言葉。
これもまた難しい。
一般的読者ってどんな読者だろう?
雑誌の場合は「その雑誌を買うような興味・関心を持っている人」と、ぼんやりとではあるが読者を想定できる。
例えば車をテーマにした雑誌なら、「馬力」「トルク」「ホイールベース」なんて言葉は何の説明もせずに使うことができる。
でも女性誌にこれらの言葉を使うときには多少の説明が必要だろう。
だから、「僕にとってのうまい文章」は、スラスラと読める文章であるが、それが果たして他人にとっても読みやすい文章かどうかは、その人による。
そこで一般読者向けの文章は「中学生でもわかる文章」を書きなさいと言われることがあるけど、それだと説明がくどくなって読みにくくなることがある。
本当にうまいと感じる文章は、僕個人に当てられた手紙やメールで、何の澱みもなく読める文章が届いたときには「うまいな」と思う。
それはつまり書いた人が、僕の興味や理解していることをある程度把握していて、僕のために書いてくれた文章だから。
No.05199 24.04.24 音楽のはたらき
僕はデヴィット・バーンやトーキング・ヘッズの曲をほとんど聞かなかった。
興味がなかった。
ところが、「アメリカン・ユートピア」を見てショックを受けた。
あんな演奏の方法があるのかと。
過去の映像を見ると、デヴィット・バーンはトーキング・ヘッズの頃から似たことをしていた。
それが技術の進化と、表現の深化で、まったく別物のように見えてきた。
彼が何を考えて音楽を作っているのか、知りたくなった。
でも、そのインスピレーションに導かれるようなアクションを、僕は何も起こさなかった。
「アメリカン・ユートピア」をみて一年以上がたち、忘れかけた頃にアマゾンで「おすすめの本」にデヴィット・バーンが書いた『音楽のはたらき』という明るいオレンジ色の本が表示された。
カスタマーレビューに何も書かれてないので、ちょっと不安だったが衝動的に買った。
届いた本を見て「なんでこの本を買ったのだろう?」と思ったが、読み始めると止まらなくなった。
最初の章は「逆からの創造」と題されて、演奏される場が音楽を作ることについて書かれていた。
その中に、チチェン・イッツァーのピラミッドの前で手を叩く話が出てきた。
10年ほど前にそこで僕は手を叩いた。
鳥の鳴き声のような音が反射してきた。
そのことについて「神聖な鳥ケツァールの鳴き声だ」と書かれていた。
それを知れただけでも僕にとっては天啓だ。
まだ読み終わってないこの本。
不思議な牽引力をずっと堪能したい。

