No.05527 26.04.21 熏習(くんじゅう)

大乗起信論という仏典がある。
そこに熏習という言葉が登場する。
衣服に香を焚きしめるように、正しい考えや行動ができるように心(阿頼耶識)を習慣づけることを言う。
これを僕は拙著「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングのことだと書いた。
熏習にしろリフレーミングにしろ、何に向かってそれをおこなうかが問題だ。
リフレーミングの場合は、心地良い気持ちや感情を保つためにおこなう。
熏習の場合は真如に向かってやったり、無明から逃れるためにおこなう。
真如とは、簡単に言うとありのままの状態ということだが、大乗起信論には「真生未分の一心」とあるから、心が二元論に侵されてない状態のようだ。
無明は苦しみや迷いを生み出す愚かさのことをいう。
だが、さらなる問題は「心地よさ」や「真如」や「無明」とは具体的に何を指すのかだ。
人によってその概念はみんな違う。
そのことにヒーリング・ライティングのワークショップをしていたときに直面した。
次の理解のためのいい機会だった。