No.05448 25.10.24 ありがとう

ユングは「ヴィジョンセミナー」という講演録でこう語った。
「東洋の人たちは、いまいる状況のすべてについて感じている」と。
「空で鳴いている鳥も、近所で吠えている犬も、今通り過ぎた車も、西洋の人は偶然としか感じないが、東洋の人はそれが一体であることを知っている」と。
奇跡的な体験をした時、「すごい」と感じるが、日々日常の平凡な出来事も繊細に感じてよく考えると実はすごいことなのだ。
ただ自分が平凡としか感じていないだけ。
それを「すごい」と見つけた時、感じた時、自然と「ありがとう」と言いたくなる。

No.05446 25.10.20 オンデマンド

今では当たり前のオンデマンド。
映画でも音楽でも、好きな時に鑑賞できる。
僕が幼い頃には見逃した映画はいつ見られるかわからないものだった。
それがビデオが出回り、レーザーディスクになり、DVDになり、今では所持する必要すらなくなった。
富や平和も、世界中でオンデマンドになってほしい。

No.05445 25.10.19 生命圏の成り立ち

地球上に生命が生まれて約40億年。
生命は生まれては死んできた。
生命は死ぬと土になる。
死んで腐って土になるか、食べられて糞となって土になるか。
土になるとそこで植物が育つ。
植物が育つと枯れて土なるか、動物の食べ物になって糞から土に戻る。
そうやって生命圏(バイオスフィア)は豊かになってきた。
肉食動物は他の動物を食い、草食動物は植物を食い、食い合って生存競争しているように見えて、実際にはエネルギーの循環をしている。
人智圏(ヌースフィア)はどうだろうか?
人智を積み重ねることで新しい人智を生み出している。
それはまるで動物が食い合っていることで動物同士が共進化しているようなもの。
しかし、残念なことに人智を積み重ねることで一方的に生命圏を搾取している。
これを改めなければならない。

No.05444 25.10.18 国際サリドマイドシンポジウム

No.05393に書いた増山ゆかりさんが主催する国際サリドマイドシンポジウムが今日開催される。
ドイツと台湾から、サリドマイド胎芽症にかかった方が登壇なさる。
昨日ミーティングがあった。
そのときの増山さんからの挨拶が以下の通り。

__________

国際サリドマイドシンポジウムにどうたどり着いたのかという話をさせていただくと、もうちょうど一年以上前になるんですが、私は北海道がふるさとなんですけれども、そこに私の友達を訪ねて行ったとろ、非常にその皆さん体調が悪かったんですね。

それで一緒に病院行こうとか、そのどこが具合悪いのとか、まあいろいろ、何とかしてあげたいと思って、いろんな話をしてみたんですが、その方ね、私の、本当に幼い頃からの友達なんですけれども、まあなんて言ったかっていうと、「いいの、私生きていたくなんかないから」って言ったんですね。でも私すごく驚いて、いやこれはもう大変なことが起きていると。これは何とかしなきゃって思って、故郷なのでまた別の友達のところを訪ねていって、とにかく応援してもらって、なんとかその友達を病院に連れて行くっていうことを考えてたんですね。そしたら、その友達も同じようなことを言うんですね。生きている方が辛いって言ったんです、その人も。

で、今度はじゃあその、とにかく私一人ではどうすることもできないと思って、誰かに助け求めなきゃいけないって思って、そこでもう一人友達を訪ねていって相談しようと。で、その人はですね、あとでビデオにも出てきますけど、市川さんとおっしゃるんですね。

市川さんは糖尿病を患っていて、今、透析を受けています。透析するためのシャントという血を採取する場所がないので、私は手ではもうできないんですけれども、市川さんは足の太ももからやってらっしゃるんですね。

それで、ご存知かもしれないんですが、サリドマイドは糖尿病率が非常に高いんですね。私も実は糖尿です。彼もその透析のために人工血管を足に入れるんですけれども、それが私たち血管も弱いっていうことで、その人工血管を入れると、人工血管に負けてしまって出血をしてしまうんですね。私なんとかしてあげたくて、その友達の相談をしたいんだけれども、その人はお医者さんに、もう次は難しいって言われてるんです。つまり、シャントを取り替えていかなきゃいけないんですね。次のシャントができてから何年持つかはもう人によって違うんですね。で、まあ長い人で十年以上、短かったら5 6年でシャントってダメになってしまいます。
でも私、とにかくもうこれは聞いてしまった責任があるので、とにかく北海道から帰ってきて、ガーッともうとにかく情報を集めて、もう1回北海道に戻って、何かみんなでできないだろうかと。何かそのチームというかね、集まりをつくって、こう知恵を出し合ってね、できないかとか、まあ、いろいろやったんですけど。みんなそんなにエネルギー残ってないって言うんですねそこでその今もう私が立ち上がってね、何か行動を起こさないと間違いなく間に合わないっていうのだけはねまあ感じてました。

そこでネット上に呼びかけて、とにかくもうなにやるも決まっていないし、何ができるもわかんないけど、とにかく集まってみんなで知恵を絞ろうといったのがこのワンチームでした。
私もう1回北海道に戻った時に、市川さんに聞くんです。私、あの、なんとかセカンドオピニオンとれるように、いい先生見つけるからって。そしたら彼ね、なんて言ったと思います。彼はね、そんなことしなくていいっていうんですね。で、どうしてかっていうと、私に「透析ってどれだけ辛いかお前は知ってるのか」って聞かれました。「中にはね、まだ続けられるのに、もうやめちゃう人もいるんだよ」って言うんですね。
それでも私あきらめられなくてね。いざ本当に彼がまたもうこのシャントが使えないって言われたときまで待っていれば。もうその時は間に合わないので、なんとかしようと思って。で、まあ、いろんな病院にも当たって。で、気がついたのは、もう私ができる、一人でできることは本当に限られていると思いました。

サリドマイドの人は外見の奇形がどうしても目につくかもしれないんですが、実際には体の中にもいろんな奇形があるので、こうやって何かちょっと命に関わるような、あるいはちょっと重い病気になった時に、その医療の恩恵を受けられないんですね。つまり、体の作りが違うので、手術のリスクがものすごく高いんです。それで、いろんな情報を集めているところで、実はドイツにはサリドマイルの人のための外来があるということを聞きました。

そこでもう私も本当にせっかちなのかもしれないんですけども、そういった時からすぐドイツ行きのチケットを手配して、すぐに飛行機に乗る準備をして、もう思い立ってから1か月後には飛行機の中でした。

今まで私は結構いろんな苦労をしたんです。まあ一言で言うと、例えば私、親と一緒に暮らしたことは一度もないんですね。ずっと施設を転々としながら大人になりました。で、自分にずっと課していたのは、生まれてよかったと思えるような人生にしたいっていうのが私の最大の人生でやりたいと思ってたことでした。そう思ってたのに、そこに今、あとでご紹介させていただきますけれども、クラウスさんが私に、クラウスさんはどうしてこんなに頑張って,いろんな自分の人生を戦うのも大変だったのに、サリドマイドの補償問題でもすごく頑張ってきて、くじけませんでしたかと。なんで頑張れたんですかって聞きました。そしたらね、クラウスさんね、私は自分の人生を歩きたかったと。

自分がね、ちゃんと人として、人権をちゃんと行使する人生を選びたかったっておっしゃったんですね。でね、それ聞いて私ね、幸せになるだけじゃダメなんだと思いました。

私が幸せになったかどうかとは別に、やっぱり私は自分がちゃんと人としてね、人生、自分がその自分の日本の法律にあるね、ちゃんと人権に守られた人生だったかどうかっていうことはね、すごく大事なんだっていうことをね、思いました。

それでもうドイツの飛行機の戻ってくる飛行機の中でね、よしと。もう私はね、今62なんですね。で、私やっぱりちょっと心臓も悪いし、糖尿だし、あと何年時間があるかわからないけれども。でも、もうあの飛行機の中でね、わかったと。私も選ぶと、尊厳のある自分の人生を選ぶというふうに。絶対取り戻したいんだっていう気持ちになり、でも私だけではなくて、みんな仲間もね、そうであってほしいと思いました。なので、今、本当にね、サリドマイドってもう忘れられていて、昔の話だよねって、こう言う人、すごく多いんですね。

私が決心したのは何かって言ったら、私の残された時間の中で絶対に自分たちは本来の自分たちの尊厳のある人生を取り戻すと。それは自分のためでもありね、仲間のためでもありね、で、必ず私たちが歩いた道って、誰かがいずれ歩く道なんですよね。誰かが私たちが我慢すれば、誰かも我慢してまた歩かなきゃいけなくなる道なんですね。

だから私はもう被害者ではなくて、自らが自分の人生を選んで歩く人でありたいと思いました。このワンチームを立ち上げた時に、具体的に、こんなことを達成したいって言っているものがありますので、それを紹介して最後にしたいと思います。

まず、私もそうですけど、治療しても具合が悪くて病院に行っても断られることがよくあるんですね。「あなたの場合は、どんな体だかわからないから治療できない」って断られるので、断られないようにしたい。安心して治療が受けられる環境を作りたいっていうのがまず一つ目の目標です。

それから、日本のサリドマイドの人は皆さん、すごく体酷使して、何でも自分でできるようにしましょうって、こう言われながら今日まで来て、その結果、もうあちこちが痛くて、今までの生活を維持できないっていうことに苦しんでいらっしゃるんです。なので、二つ目の目標としては、体を酷使しないでもできるような環境に整えていきたいということです。

それから今、みんな若い時は一緒にどっか出かけるとかいう機会があったけれども、今もうだいぶなくなって、結構音信不通の方もいらして、日本のサリドマイドって今255人とか、その前後ですけど。これはあくまでも亡くなってるっていう確認が取れてない人も中にはいらっしゃるかもしれないので、だからもう残された時間を本当に有意義なものにしたいので3番目の目標はとにかくサリドマイド同士ね、あるいはその同じような境遇の人たちで手を取り合って、自分たちの気持ちを分かり合える、そういう仲間を募って親睦を深めていきたいっていうのが3つ目の目標です。私たちの今、日本の場合は和解確認書っていうのが1974年に国と製薬会社と被害者の間で結ばれました。

裁判があって、その結果、和解をしたんです。私たちの今のいろんな、サリドマイドのいろんな仕組みっていうのは、その和解の時に決めたルールの中で動いているんですね。1974年でもその時はまだレントゲンぐらいしかないじゃないですか、医療では今はCTもありMRIもありね、あるいはもっといろんな研究技術も上がっている。

60年前にわかったものよりも、ずっとどんな体になっているかっていうのを研究すればわかるようになってきたんです。その最後はやっぱりその病気になってから治療を受けるんではなくて、その前にできるだけ何かね、手当てができるような体制づくりをする。例えば大学にサリドマイド専門の研究所、健康研究所を置いてもらうとかね。

個人の力ではどうすることもできないことがたくさんあるので。またその当時わからなかったことを、きちんと手当てしてもらうっていうのは、あの当たり前の話なんだと思うんです。ですので、四番目のものとしては、必ずしも金銭ということを言ってるんではないんですが、きちんと自分たちが、例えばあの年をとっていった時に、ちゃんと暮らせるように、そういう設備のある施設とか家とか、そういう環境を整えてほしいとか、まあそういうざっくりした言い方ですけど、保障の獲得していきたいと。

きちんと手当てしてもらえるような、そういう環境を作っていきたいっていうのが4番目の私の目標ですね。

当時は、まだどんな状況かわからない中で、とにかく必要なことはこんなことだろうっていうことでね、この4つの項目を考えました。

社会に対して自分たちが何を求めているのかっていうことを伝えていくことは大事で、このワンチームの仕事だと思っているんですが、それと同時に私たち自身がやっぱり改めて,こういう大きな事件の当事者になった自分が、どう自分の人生を捉えていくのか。あるいはそれをどう社会の中に還元していくのかっていうことを、考えるいい機会でもあるというふうに思っています。

__________

このイベントが実現して嬉しいだろうなと思う。
この思いが多くの人に届きますように。
興味のある方はぜひ国際サリドマイドシンポジウムにいらしてください。

日時:2025年10月18日15:00〜19:00
開催場所:東京都中央区日本橋2-3-4 日本橋プラザビル9F Vision Hall
参加費:無料

更なる詳細は、http://thalidomide.jp に。

No.05443 25.10.14 ブラジルに勝った

親善試合とはいえ、日本代表がブラジル代表にサッカーで勝った。
熱心なファンではないが、以前から大きな試合は見てきた。
昔、Jリーグができた頃は、ヨーロッパや南米のチームとは明らかにパス回しの速度と正確さが劣っていた。
ところが今では遜色ないどころか、速いくらいだ。
何十年もの積み重ねが結果に出てきた。
代表選手の努力の賜物であることは明らかだが、日本のサッカー全体がレベルアップした結果でもあると思う。
サッカーに関わっている皆さん、おめでとうございます。

No.05442 25.10.13 雪の降る街を

女性合唱団アンサンブル・アクア・ジャパンの第一回公演を聞いてきた。
藝大出身者が中心らしく、見事なハーモニーが聞けた。
指揮者の三好郁夫氏は藝大を卒業し1984年からスイスで活動。
三次氏が日本に滞在中にのみ活動するプロジェクト合唱団だそうだ。
長年ヨーロッパ圏にて向こうの言葉で演奏活動してきた三好氏にとって、日本で日本語の曲を指揮することはとても心が震えるもので、その様がよく演奏に表れていた。
そのコンサートの最後の曲が「雪のふるまちを」だった。
それを聞いて古い記憶の扉が開いた。
まず一つは、僕が高校一年の音楽の授業で、期末試験としてこの歌をピアノ伴奏を編曲した上で歌ったこと。
もう一つは、母がユトリロの絵が好きで、この曲を聴くたびにユトリロの描いた冬の街を思い出すこと。
僕は「雪の降る街を」と記憶していたが、調べると、最初「雪の降るまちを」と表記されたが、発表のたびに「雪の降る町を」「雪の降る街を」と変化したそうだ。
アンサンブル・アクア・ジャパンのプログラムには「雪のふるまちを」と記載されていた。
その変遷にはどんな物語が隠されているのか、興味が生まれた。

No.05441 25.10.12 サマーセーター

長袖のサマーニットを出した。
真夏に着るには暑いけど、少し涼しくなった今頃に着るのがいい。
ゆるゆるのニット生地が肌をくすぐるのが心地いい。
秋の思い出が染み付いている。

No.05440 25.10.11 ひっぱりだこ飯の壺

「ひっぱりだこ飯」という弁当を、相方が出張帰りに買ってきてくれた。
タコがたくさん入っていて美味しかった。
その器が陶器でできた蛸壺風だったので洗って使うことにした。
ビーフシチューを作ってそこに入れると、保温性が良くてなかなか冷めない。
しばらくたってもアッチッチなビーフシチューが食べられた。
次はカレーでも入れてみようかな。

No.05439 25.10.10 涼しい風

窓を開けると涼しい風が入ってくるようになってきた。
爽快。
あ、そうかい?
そうだよ。
でも、気候が変わると体の調子が微妙に狂う。
そんな歳になってしまった。
そんな歳まで生きてこられたことに感謝。
新しい世界を見られることを嬉しく思う。