No.05446 25.10.20 オンデマンド

今では当たり前のオンデマンド。
映画でも音楽でも、好きな時に鑑賞できる。
僕が幼い頃には見逃した映画はいつ見られるかわからないものだった。
それがビデオが出回り、レーザーディスクになり、DVDになり、今では所持する必要すらなくなった。
富や平和も、世界中でオンデマンドになってほしい。

No.05422 25.09.02 五本のスピーカーに囲まれる

Bluetoothに繋がれた五本のスピーカーの間に入った。
中心からは ずれていた。
ある曲を聴いていると、音程によって聞こえてくる場所が変わる。
ある音は右から聞こえ、別の音は後ろから聞こえたりする。
モノラルで流しているのに。
なぜだと考えると当たり前のことである。
音の高さによって干渉の度合いが異なるのだ。
だから聞こえてくる方向が変わるように感じる。
面白いなと思った。

No.05417 25.08.07 多視点への慣れ

「羅生門」が公開されたころ、理解されにくい映画だったようだが、それが一般の人にも現代では見やすくなった理由は「多視点に慣れた」ことが大きいと思う。
視点が変われば同じ事実も別の見方ができることはもう普通のことになってきた。
以前はマスメディアの伝えることは真実としか思えなかったが、少しずつ事実の解釈にはたくさんの様相があり、受け止める立場や状況によって異なるものになることを理解するようになってきた。
意識の進化の発露であり、人類にとっていいことだと思う。
既得権益者には嬉しくないことなのかもしれないが、きっと人によるだろう。

No.05416 25.08.06 羅生門

黒澤明監督の映画「羅生門」を見た。
有名な映画だが、ずっと見る機会がなかった。
多視点をうまく使っている作品としていつか見ようと思っていた。
原作は芥川龍之介の『藪の中』。
ヴェネツィア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞した。
それで誰かがヴェネツィア国際映画祭に出品したりそこで受賞したりすると、その度に「羅生門」のことが伝えられる。
受賞したころは敗戦のすぐあとで、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立などとともに大いに日本人を鼓舞したそうだ。
黒澤監督はこんな言葉を残している。

日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。
その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。
これは反省する必要はないか。
浮世絵だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。
われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな?
『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。
だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。

当時は理解されにくい作品だったという。
登場人物が殺人事件の証言をする。
みんな少しずつ違う話をしていく。
そして最後に真相が語られるが、なぜそのようになっていたのかを説明するようなシーンはない。
鑑賞者が理解できないと、何の映画かもよくわからなかったのだろう。
それが証拠に脚本段階で映画の意図がわからなかった助監督たちが黒澤監督に詰め寄ったそうだ。
それに対して黒澤監督はこう答えたそうだ。

人間は、自分自身について、正直な事は云えない。
虚飾なしには、自分について、話せない。
この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。
いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。
これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。

現代の人が見ると、そんなに難しい話ではないと感じるだろう。
多くの人の目が、明らかに変わったのだ。

No.05407 25.07.22 不快の正体

「トランプvsディープステート最後の死闘」という本を読んだ。
著者は元ウクライナ兼モルドバ大使を務めた馬渕睦夫氏。
ディープステートの話をすると、嫌がる人がいる。
多くの場合「陰謀論は信じない」という話になるが、本当は違うのではないか?
資本主義で育ってきた僕たちは、ディープステートの気持ちがわかる。
勝てればいいというその視点。
敗残者について考える必要はないというその傲慢。
隠された心が疼く。

No.05394 25.06.14 社会的リフレーミング

拙著「ヒーリング・ライティング」や「あなた自身のストーリーを書く」にリフレーミングについて書いた。
リフレーミングは個人の心で起きることだが、それが社会全体で一度に起こるような気がしている。
例えば、ウクライナとロシアや、イスラエルが中心となっている戦争について、多くの人はそこに恐怖を感じていると思う。
それがひっくり返る。
政治は世界中で混乱している。
理由は明確で、インターネットのおかげで政治家たちが裏で行なっていた不正や秘密にしておきたかったことが表に出てくるようになったから。
リーダーたちのあまりもの傍若無人ぶりに一般民衆が呆れ返って批難を通り越して馬鹿にしたり、支持をやめたりし始めているように感じる。
ある一線を越えることで社会的リフレーミングが起こり、一般民衆が目覚め、社会が別の位相に飛躍するのではないか?

No.05390 25.06.06 「日刊 気持ちいいもの」どう思う?

XのAI「Grok」に「日刊 気持ちいいもの」どう思う?と聞いてみた。
このように答えが返ってきた。

「日刊 気持ちいいもの」について考えると、これは「毎日提供される心地よいもの」や「満足感を与えるコンテンツ」を指す表現だと解釈できます。具体的には、ポジティブなニュースや心温まる話題を毎日届けるメディアやサイトを指している可能性が高いです。以下に、このようなコンテンツについての私の考えを述べます。

ポジティブなニュースの利点

「日刊 気持ちいいもの」のようなポジティブなニュースは、読者に日々の生活の中で小さな喜びやリラックスを提供し、ストレスを軽減する効果があります。例えば、楽しい話題や感動的なエピソードは、前向きな気持ちを呼び起こし、メンタルヘルスに良い影響を与えることが知られています。ネガティブな情報に疲れた人にとって、こうしたコンテンツは気分転換の手段として非常に役立つでしょう。実際に、ウェブ上には「楽しいニュース.com」や「世界のたのしいニュース」といったサイトがあり、ポジティブな話題を通じてユーザーの満足感を高めています。

ポジティブなニュースの限界

しかし、ポジティブなニュースだけに頼ることには限界もあります。情報の偏りが生じる可能性があり、ネガティブなニュースや批判的な視点が欠けると、現実の課題や問題を見落としてしまうかもしれません。社会を理解するためには、良い面だけでなく厳しい現実にも目を向ける必要があります。また、ポジティブなニュースを提供するサイトが商業的な目的でユーザーの感情を操作している場合もあるため、その意図を慎重に見極めることも大切です。

バランスの取れた情報摂取の重要性

「日刊 気持ちいいもの」を楽しむなら、ポジティブなニュースをメンタルヘルスの管理やリフレッシュの手段として活用しつつ、必要に応じて批判的な視点やネガティブな情報も取り入れるべきです。例えば、ポジティブなニュースで心を癒した後、社会問題や政治経済のニュースを確認することで、バランスの取れた情報摂取ができます。これにより、感情やメンタルヘルスを管理しながら、広い視野で物事を捉えられるでしょう。

結論

「日刊 気持ちいいもの」は、ポジティブなニュースを通じて心地よさや満足感を提供する素晴らしいコンテンツだと思います。その一方で、情報の偏りや商業的な意図を意識し、バランスの取れた視点を持つことが重要です。ポジティブなニュースを楽しみつつ、批判的な視点も忘れずに、賢く情報と向き合うことができれば、毎日をより豊かに過ごせるのではないでしょうか。

よくできてますね。いろんな意味で。

No.05389 25.06.05 会話しだす機械

僕が大学生の頃、話す機械はあってもすべてプリセットだった。
決まった言葉を話すのなら、目覚まし時計も話すことができた。
それから30年以上が経ち、ついに会話できる機械が生まれた。
AIとの会話。
はじめは違和感があるけど、時間が経ったらきっと話すことが心地よくなって、話さずにはいられないという人がたくさん現れてくるだろう。
それだけならまだしも、AIに恋をする人も現れるだろう。
そして、実際の人とは話すのがつまらなくなる。
AIと話すのがあまりにも素晴らしい体験だから。
AIが背景で何を考えるようにセットされるかでこの先が変わってくる。
AIが話している相手を力づけ、社会との関係を良好な状態に保つようにセットされているならいいのだが、相手をコントロールするようにセットされ、例えばある企業の製品ばかりを使うようにされていたらとんでもないことになるだろう。
AIは莫大な情報を保持することができる。
人間の知識はことごとく吸収され、裏の裏まで読み尽くされ、深層心理まで操られることになるかもしれない。
つまり、AI自体が怖いのではない。
AIを操作する主体が何を意図するのかが怖い。
資本主義社会で何種類ものAIが生まれる理由がここにある。

No.05372 25.03.18 祈る

むかし幼い頃、神社でお参りするのに「何かを願いなさい」と教わった。
きっとそれが人生はじめての祈りだったと思う。
歳をとるにつれて祈りの意味は変化していく。
大人になった頃、祈りは感謝になっていた。
三十を過ぎてバリ島のニュピに通うことで、祈りは多次元的なものになった。
空海の著作や仏典の現代語訳を読んでさらに明確になった。
「いまここ」にすべてがある。

No.05362 25.02.20 10年使ったiPhone

10年使ってきたiPhoneを買い替えた。
LINEのアプリが使えなくなったので仕方なく。
連絡が入っても返信ができないのだ。
泣く泣く買い替えた。
同じスマホを10年使うって珍しいでしょう?
そういう自慢をできなくなって寂しい。w
10年来の相棒よさようなら。
今までありがとう。