No.05442 25.10.13 雪の降る街を

女性合唱団アンサンブル・アクア・ジャパンの第一回公演を聞いてきた。
藝大出身者が中心らしく、見事なハーモニーが聞けた。
指揮者の三好郁夫氏は藝大を卒業し1984年からスイスで活動。
三次氏が日本に滞在中にのみ活動するプロジェクト合唱団だそうだ。
長年ヨーロッパ圏にて向こうの言葉で演奏活動してきた三好氏にとって、日本で日本語の曲を指揮することはとても心が震えるもので、その様がよく演奏に表れていた。
そのコンサートの最後の曲が「雪のふるまちを」だった。
それを聞いて古い記憶の扉が開いた。
まず一つは、僕が高校一年の音楽の授業で、期末試験としてこの歌をピアノ伴奏を編曲した上で歌ったこと。
もう一つは、母がユトリロの絵が好きで、この曲を聴くたびにユトリロの描いた冬の街を思い出すこと。
僕は「雪の降る街を」と記憶していたが、調べると、最初「雪の降るまちを」と表記されたが、発表のたびに「雪の降る町を」「雪の降る街を」と変化したそうだ。
アンサンブル・アクア・ジャパンのプログラムには「雪のふるまちを」と記載されていた。
その変遷にはどんな物語が隠されているのか、興味が生まれた。

No.05435 25.10.01 神奈川沖浪裏

言わずと知れた葛飾北斎の富嶽三十六景の中の一枚。
見事な構図だ。
背中にこれがプリントされたTシャツを見つけ買ってしまった。
それを着て、ウキウキしながらこれを書いている。

No.05413 25.08.03 阿佐ケ谷バリ舞踊祭

昨晩、阿佐ケ谷バリ舞踊祭でバリ舞踊を鑑賞してきた。
知人が参加していたので様子を見に行ったのだが驚いた。
舞台脇にガムランの楽器セットが置いてあったので、奏者が来日しているのかと思った。
第一部では音源が流され、楽器はお飾りでしかなかった。
「なんだそういうことか」と思ったが、第二部から日本人と思われる奏者たちが演奏し、それに乗って舞踊が繰り広げられた。
第三部では奏者が交代した。
つまり日本にガムラン楽団が二つはあるということ。
二つが可能なら、全国ではもっとたくさんあるのかもしれない。
ガムランの息の合わせ方はよほど練習をしないと可能にはならない。
あれだけ見事な演奏ができる人たちがいるとは、と驚いた。
隣のおじさんが三部の途中で「これは紛い物だ」と言って席を立って行ったが、日本人がやっているんだから紛い物であるのは当然で、でもこのレベルが可能になるなら将来が楽しみになった。
https://asabalidance.wixsite.com/asabali

No.05386 25.05.27 青銅縦目仮面

三星堆遺跡から出土された青銅縦目仮面。
その異様な形。
ヨウ素不足で甲状腺機能亢進症になった人を表現しているのではないかという説があるそうだが、僕は違うように思う。
これを見て最初に思い出したのは、Theo Haze氏のOniの連作だ。
普通の鬼とは全く違う。
目から星が飛び出している。
一度見たら忘れられない見事な現代アート。
青銅縦目仮面との時代を超えた響きあい。

No.05315 24.11.18 国立京都国際会館

友人の写真家が国立京都国際会館を撮影したとfacebookに作品をアップした。
懐かしい。
三十代の頃、そこに二、三日泊まって国際会議に参加したことを思い出す。
神社のような屋根の造り。
未来を思わせるその廊下。
あちこちに見られる斜めの柱、V字の柱。
庭園では池の上を歩ける歩道。
会場内のステンドグラスやライト。
一流の場所は一生忘れられない印象を与えてくれた。

No.05234 24.07.03 令和6年7月3日朝の夢

またまた説明しにくい夢を見てしまった。
正しく順番に説明することはできそうもないので、説明できるところからしていくと、こんな感じになる。
人間は自分を認識するのに、環境との関係をほとんど考えないが、自分の考えや思いが、環境からも生まれてくることは明らかだ。
つまり古代に生まれていれば、科学的な考えを持てる人はほとんどいなかった。
だけど、科学的な現代に生まれれば、容易に科学的な考えを得ることができる。
そこで問題が生じる。
今生きている自分が、過去に生きていたであろう人より優れていると思い込むこと。
その思い込みはまだ許容できる。
比べる土俵が整うことはないから。
しかし、その思考の延長線上に問題を生み出す思考が生まれる。
現代の科学をほとんど理解している人が、それらを理解しない人より優れていると考えること。
これがなぜ問題か?
人間は、すべての知恵を得ることができないから。
より理解した者が、理解できない者を差別する。
このような幻想を持ってしまうから。
どのような理解を持っていようとも、その理解は限定的なものでしかない。
ニュートンは宇宙を理解したと思ったかもしれないが、アインシュタインによってそれは幻想だったことがはっきりとした。
同様に、どんな智慧も、知れば知るほど奥行きが生まれてくる。
宇宙に対して謙虚にならざるを得ない。
どんなに知的な人間でも、宇宙の知には敵わない。
にもかかわらず、人間は知的に劣ったものを見下す傾向がある。
それの何が問題かは、ここまでの話が理解できた人には色々と思い浮かぶだろう。
どんなに崇高なことを考えていても、何か行動しない限り、その考えは存在しないも同然だ。
つまり、崇高なことを考えた人は、それを表現しなければならない。
文字にしてもいいし、絵にしてもいいし、音楽にしてもいいし、行動してもいいし、新たなメディアを作ってそこに表現してもいい。
崇高な考えほど、理解してもらいにくい。
簡単に理解してもらえる考えは、すでにたくさん存在しているだろう。
だから、崇高な考えは孤立しがちだ。
それが個人の内側に生まれても、理解してもらえないことで失われていくことが、過去にどれほどあったことか。
今生まれている崇高な考えは、その多くが、現在の環境がこのようだからこそ生まれたものが多いはず。
同様に、古代における崇高な考えは、古代の環境の中にいないと理解しにくい。
だから、僕たちは古代の遺跡がなぜ作られたのか、わからないことが多い。
つまり、自分が形作っている考えは、自分が作っただけではなく、今ある全存在との相互関係から生まれてきている。
しかし、それであっても宇宙の知には敵わない。
人間が持つ崇高な考えは必ずアップデートされるはず。
ここまでは、誰でも理解できる常識的な話だが、ここから先が夢の話だ。
あくまでも僕の夢なので、事実かどうかは問わないでほしい。

世界を掌握したと考えている一握りの人たちは、さらなる知を求めて、試験や実験を繰り返す。
しかし、知れば知るほど知りようがない知恵がどこにあるかを知ることになる。
生命はなぜ存在するのか?
これは誰も知りようがない深遠な謎だ。
知の誘惑に駆られた学者は不遜にもその謎に挑戦する。
その結果、何が起きたのか。
自らが優秀だと考えているグループが、劣っていると思い込んでいるグループに対して、してはならない実験をする。
それが明確に現れたのがタスキギー梅毒実験。
1997年5月にクリントン大統領が謝罪して明るみに出た。
1932年から1972年まで行われたと言われている。
アラバマ州タスキギーにて、アメリカ公衆衛生局が梅毒の臨床研究をした。
公には「Bad Blood(悪い血液)」の治療のためとしていたが、実際にしていたことは「もし梅毒を治療しなかったらどうなるのか?」。
これを黒人を対象に研究した。
実験対象になった黒人たちは治療を受けていると思わされていた。
そして実際には、すでに罹患した、または人によっては罹患させられた梅毒に対して可能である治療を受けることはなかった。
これがアメリカにおいて、黒人がなぜワクチンを打ちたがらないかの大きな理由の一つだ。
そのようなことが現代でも起きないとは限らない。
遺伝子の謎はとても深い。
そう簡単に解き明かすことはできない。
それをどうしてもしたいと考える一握りの人間が、自らを優れた存在だと考え、劣った存在を犠牲にしてもそれを解明するのは、優れた存在の義務だと考える。
そのような勘違いが起きているのではないか?
このような考え方は勘違いである。
なぜなら、現在人間が持ち得ている知識は、時が経てば更新されていくべき、浅薄なものでしかないから。
AIが完成すれば絶対的知恵が生まれるというのも勘違いだ。
人類はさらに深甚な、人間の頭脳では整理しようのない、広大な知恵へと導かれていくだろう。
そのときはじめて、現在持ち得ている知恵が、浅薄であったことに気づく。
そして、その浅薄な知恵に導かれてそれをAIによって拡張し、地球に適応させるなら、人類は滅びて当然だろう。
人類だけではなく、地球上の生命がすべて絶滅するかも知れない。
そうやって絶滅した生命が今まで全宇宙にどれだけ存在したのだろう?
その危機を乗り越えた存在は、まだごく少数で、そのような文明はそれを他の星に伝えたいとは思うかも知れないが、実際には伝えることができないので、ただ見守るしかない。
なぜ見守るしかないかといえば、それを理解する概念を生み出していない生物には、どうやっても伝えられないからだ。
言葉を持たない猿に、愛を伝えようとしても無駄なのと同じように。
だから、今ある存在を大切にして、少しずつ前進していくしかない。
環境を育て、自分のビジョンを育て、それに関わる他の存在と一緒に育ち、新たなる概念を生み出していく。
こういった夢を、わずかな時間に、多次元的に見た。

No.05191 24.04.13 龍とはなにか?

龍について色々と調べている。
いろんな資料を読んでいるうちに、なぜ東洋と西洋では、龍の解釈が違うのかについての説を読んだ。
西洋では多くの場合、龍は邪悪な存在として登場するという。
一方、東洋で龍は王権の象徴だったり、善の存在として表現されることが多い。
それはなぜか?
龍は水の象徴ととらえられる。
つまり大きな水の流れが龍になったり、大きな水の流れを支配するものが龍になったりする。
西洋では水や自然環境を「支配すべきもの」ととらえ、東洋では「一体となるもの」ととらえるから、善悪が逆になるのだという。