No.05243 24.07.20 誰かのせいにするのをやめる

世間で起きることはすべて、誰かのせいだと思い込んでいる。
これはかつての人間の性質だ。
人間が言葉を使い続ける限り、そこから抜け出すのは難しい。
言葉は何かを他から隔絶するから。
「あの事件の犯人」というと、その人だけが悪い人のように思えてくる。
でも、前後関係をつぶさに見ていくと、その人が犯人にならざるを得なかった理由が見えてきて、その理由を作っている周囲の状況が見えてきて、その状況を作っているのは人間の思い込みだったりして、その犯人が犯人になってしまったのは、周囲の状況がそうだったからとしか言いようがなくなり、それでも「犯人が悪いよね」と結果づける。
そして、犯人が生まれてしまう状況はそのまま残される。
そしてまた、誰かが犯人になる。
こういう状況を現代は多くの人が理解するようになってきた。
でも、まだ簡単には解決できない。
考えるべきことが多すぎるから。
でも、認識したことはいつか解決される。

No.05238 24.07.10 言語化しなくてもいい気持ち良さ

外国人旅行客が増え、渋谷も京都も街がゴミだらけにされているとニュースショーで伝えていた。
住んでいる人にとってはとても迷惑なことだろう。
それを見て思い出したのが、世界の多くの学校では生徒には掃除をさせないという話。
統計を取って調べたわけではないが、何かでそうなんだと聞いた。
多くの外国人にとって「掃除をするのは下層の人」という意識があるのかも知れない。
フランスの会社の日本支社に勤めていた友人が、フランス人がトイレを使ったあと、ひどく汚れているので「なんでだ」と聞いたそうだ。
質問されたフランス人はこう答えた。
「掃除する人の仕事を奪ってはいけないでしょう」
ここから推論すると、客人達は日本が美しいのは、ゴミ掃除をする人がたくさんいるからと思っているのかも知れない。
それは違うことを客人達に伝えたほうがいいだろう。
僕の母は、僕がゴミを出すと「よこしなさい」と言って、そのゴミを鞄に詰め込んで持ち帰っていた。
客人達はそのような感覚が理解できないのだと思う。
美しい日本、茶道や華道を生み出した日本を本当に味わいたいなら、その心も知るように、僕たちが言語化して伝えていかなければならないようだ。

No.05204 24.05.06 一日遅れの菖蒲湯

昨日、どうしても「気持ちいいもの」が思い浮かばず、夜に瞑想していたら眠ってしまった。
気付くと0時を過ぎていて、「しまった」と思いながら「日刊 気持ちいいもの」を書くのを諦め、寝る準備をした。
歯を磨こうとお風呂の脱衣所を兼ねた洗面室に行くと、菖蒲の束が置かれていた。
相方が五月五日に菖蒲湯に入れるように準備していてくれていた。
僕が無駄に頑張らなければ、菖蒲湯に浸かって気持ちいいものが書けたろう。
一日遅れの菖蒲湯は身に沁みた。

No.05191 24.04.13 龍とはなにか?

龍について色々と調べている。
いろんな資料を読んでいるうちに、なぜ東洋と西洋では、龍の解釈が違うのかについての説を読んだ。
西洋では多くの場合、龍は邪悪な存在として登場するという。
一方、東洋で龍は王権の象徴だったり、善の存在として表現されることが多い。
それはなぜか?
龍は水の象徴ととらえられる。
つまり大きな水の流れが龍になったり、大きな水の流れを支配するものが龍になったりする。
西洋では水や自然環境を「支配すべきもの」ととらえ、東洋では「一体となるもの」ととらえるから、善悪が逆になるのだという。

No.05187 24.04.09 龍神祭・水分神事

久しぶりに秩父今宮神社の龍神祭と水分神事に行ってきた。
参拝客が以前より増えて勢いを感じる。
龍神様に奉納されたのは、供物・祝詞・山伏たちによる般若心経・嶋崎美心さんによる豊栄舞・柚楽弥衣さんの奉納歌唱、そして直会の際に安慶さんのハンドパンとディジュリドゥの奉納演奏。
午後には秩父神社から神官・伶人・作家老・神部たちが行列をなしてやってきて、武甲山から龍神池に降りてきた山の神(水神様・龍神様)を招き入れ、秩父神社に連れて行き、御田植祭をおこないます。
これで春が訪れ、一年の収穫ののち秩父夜祭で感謝の祈りを捧げます。
祭りとは現代的に考えればリセットです。
毎年同じことをただしていると、つい作業が疎かになってしまうのが人間です。
祭りをすることで、新たな感覚で真摯にことに向き合う。
古の人々が守り続けてきた大切な儀式です。

No.05164 24.03.07 雪の日

小学生の頃、僕は冬でも半ズボンを履いていた。
乾燥した日が続くと股の内側がこすれて痛くなった。
それでも母は半ズボンを履かせたがった。
母には幼い頃に寒さに慣れると、大人になっても風邪をひきにくくなるという思い込みがあった。
だから、僕もそれに従っていた。
きっと今の基準で考えると、虐待ということになるのではないかと思う。
でも、僕は虐待とは思っていなかった。
母なりの愛情の表現だと思っていた。
他にも半ズボンで通す子は多かった。
でも、雪の日だけは長ズボンを履かせてもらった。

No.05150 24.02.14 いまどきのバレンタイン

今日たまたまテレビをつけたら、若い女性がインタビューを受けていた。
「誰かにチョコをあげるの?」
「チョコの販促でしょう。自分が食べたいときだけ買うわ」
さすが現代の女性だなと思った。
でもオジサンは、もらうと嬉しかったな、とも思う。

No.05128 24.01.09 華厳経は何が面白いの?

それには簡単には答えられない。
華厳経にはいろんな内容が精緻に折りたたまれ、比喩となり、こちらの知識を刺激して、解明してくれるから。
例えば、毘盧遮那仏を宇宙と見立てると、現代の宇宙物理学を教わっているかのように思えてくる。
如来や菩薩の会話の構造は、ホロンに関して教えられているようだ。

その内容がなぜ言葉にしにくいのかというと、第一章にあたる寂滅道場会の最後に童子(こどもor青年)が出てきて、仏と会話をし、悟りとはどれだけ素晴らしいことかと話すのだが、その会話はほんの五十行程度で終わる。
華厳経の最終章である入法界品では、文庫本三冊で善財童子がどのように悟っていくかが示される。
その方法は基本的には悟ったといわれる人たちに会って、その話を聞いていくだけなのだが、いろんな人に会い続けるうちに次第と童子の心の中に生まれてくる内容が大きくなっているだろうことが読み手に推測され、書かれていることが理解されるのと同時に、書かれていないことも大きく膨らんでいく。
何度も何度も似た話を繰り返されたりもするが、そのことによって、その内容のわずかな違いが大切であることに気付かされ、そのわずかな違いに注意を払い出すと、その理由が見えてくるようになる。
寂滅道場会の最後に五十行程度で記されていたことが、実は如来になると文庫本三冊分の膨大な知恵になっていることが明確になる。
つまり華厳経で教えてもらうことは、言葉で簡単に教えてもらうことがどれも、実はものすごい時間や空間や人々の会話や、深い知恵によって作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解し、常にそのことを背景にあらゆることを感じるというのはどういうことであるかに目覚めていることとはどういうことかを伝えてくれている。
つまりそれは、どんなに簡単に思える存在でも、実はものすごい時間や空間や生死を通して作られてきた飛んでもなく尊いものであることを理解することであり、それに目覚めた状態で世界と対峙するとはどういうことかを教えてくれる。
だから、読む人によって見えてくるものはきっと違い、その違いがガンジス川の砂粒の数ほど多いのだろうことが理解される。

No.04924 23.02.09 イニシュモア島の土

イニシュモア島は岩でできていて土がなかった。
だから、そこで農耕をする人たちは土から作る。
石を積んで四角く囲み、そこに島のまわりにある海藻を持ってくる。
堆肥のようにして土を作る。
土がないと命を育みにくい。
日本では当たり前にある土の価値を知らされた。