本当のことを書くのはメンタルにいい影響を与える。
それには疑いがない。
以前、マウイ島ラハイナに行ったときには必ず寄ったアイランド・サンダルのマイケル爺さんとした話。
お店に行ってサンダルの修理を頼むと、怪訝そうな目で僕を見る。
「あんた、仕事は何をしている?」
「ライターです」
「そうかい。だったら自分で考えて書いているね」
当たり前のことを言われて意味がわからなかったので「なぜですか?」と聞いた。
「アメリカのライターはね、たいてい会社に言われたことしか書かないから左脳ばっかり使って、その結果、右足に変な油が出てくるからそれでこの人はライターだなってわかるんだ。ところが君にはそれがない」
「そうなんですか」
「いい記事書けよ」
No.05261 24.08.11 淀んだ空気を祓う
日本には「祓う」という概念がある。
英語にすると「exorcise」というらしいが、ニュアンスがちょっと違うように感じる。
「exorcise」は「悪魔を祓う」という意味で、日本の「祓う」には確かに「魔を祓う」という意味もあるけど、必ずしも「魔」や「悪」ばかりではなく、「淀み」や「不明瞭な感覚」も「祓う」ことができるだろう。
つまり「祓う」には、多神教的なニュアンスが埋め込まれており、必ずしも悪くなくても、意見や解釈が複雑に絡み合っていてほぐすことができない状態を落ち着かせることも「祓う」ことになるのではないか。
「exorcise」は祓えたか否かがはっきりとするが、「祓う」は複雑な状況を抱え込んで白黒つけるというよりは、考えるべきことに意図を向けた結果、「よし」と言える状況かどうかが大切で、無理に解決に追い込まなくてもいいような気がする。
日本のあらゆる部分が祓われ、世界に波及しますように。
No.05255 24.08.05 大事なこと
日本政府がすべきことは、国民が安心して暮らせるようにすることのはず。
医師がよりよく暮らせるように、薬を処方するように。
電力会社が安心して、電力を使えるようにするように。
知事が地方行政に嘘を持ち込まないように。
No.05250 24.07.30 水のきらめき
「水のきらめき」というBlogを20年近く執筆している。
今のBlogには、2008年からの原稿しかないが、それ以前にもiBlogという、appleが提供していたBlog作成ソフトで更新していたが、wordpressの方が使い勝手が良く、iBlogは廃止になった。
かつてはGoogleで検索すると「水のきらめき」はずっとTopに表示されていた。
ところが、311以降、政府にとって都合の悪いことを書くようになったら、だんだん順位が落ちて、トリチウム水のことについて書いた頃からは表示されなくなった。
不愉快だ。
そんなことしているから日本の景気はダダ下がりだ。
と、文句を言っても仕方ない。
たとえ読まれなくても、書きたいことを書いていく。
しばらく体調が悪かったので書かなかったが、そろそろ復活させる。
日本政府を困らせたいのではない。
僕から見た本当のことを書きたいだけ。
「水のきらめき tsunabuchi」と検索すると、表示される。
No.05246 24.07.24 箱の解剖
思い出すとはどういうことだろうか?
思い出すのは一瞬で、全体を感じる。
そのあとで説明のために細かい部分を言葉にしていく。
ところが、説明に時間がかかる。
だから思い出すことにも時間がかかっているように感じてしまう。
何度も思い出を文章にしていて気づいたのは、僕の場合、思い出すのは一瞬ということ。
この一瞬で思い出の全体像を得ている。
そののちに細かいことをポロポロと知覚していく。
その細かいことは、前提があってはじめて思い出す。
たとえば、昨日書いた不思議な体験のことをマルッと思い出す。
そののちに「バリ島で一緒にいた女性の名は?」と問われれば、思い出すことができる。
だけど、バリ島での思い出と紐づいてない状態でその日の日付を言われて、「その日に一緒にいた女性の名は?」と問われても、いったい誰のことやらさっぱりわからない。
つまり思い出は、箱のような仕切りで仕切られている気がする。
箱が明確になると、中身もはっきりする。
その箱は、不思議な箱で、多次元の形を持つ。
たとえば、「バリ島での鳥の思い出」と言われると、昨日の話のほかに、別のときに体験したことも思い出す。
「バリ島での」を抜いて「鳥の思い出」と言われれば、もっとたくさんのことを思い出す。
だけどいきなり「どんな思い出がありますか?」と問われたら、「バリ島での鳥の思い出」に含まれることを思い出さないかもしれない。
つまり思い出は、集合の帰属と包含のような簡単な関係ではない。
だからそれを普通の箱のように思うと、それは違う。
ある一面から見ると箱のようであり、別の面から見るとネットワークのようである。
だから、不思議で多次元な箱だと思う。
No.05243 24.07.20 誰かのせいにするのをやめる
世間で起きることはすべて、誰かのせいだと思い込んでいる。
これはかつての人間の性質だ。
人間が言葉を使い続ける限り、そこから抜け出すのは難しい。
言葉は何かを他から隔絶するから。
「あの事件の犯人」というと、その人だけが悪い人のように思えてくる。
でも、前後関係をつぶさに見ていくと、その人が犯人にならざるを得なかった理由が見えてきて、その理由を作っている周囲の状況が見えてきて、その状況を作っているのは人間の思い込みだったりして、その犯人が犯人になってしまったのは、周囲の状況がそうだったからとしか言いようがなくなり、それでも「犯人が悪いよね」と結果づける。
そして、犯人が生まれてしまう状況はそのまま残される。
そしてまた、誰かが犯人になる。
こういう状況を現代は多くの人が理解するようになってきた。
でも、まだ簡単には解決できない。
考えるべきことが多すぎるから。
でも、認識したことはいつか解決される。
No.05227 24.06.16 腐海
気持ちいいものを追求しすぎると「不快」が現れてくる。
きっと過ぎればなんでも裏返るのだろう。
「風の谷のナウシカ」で汚れ切った環境の中に腐海ができてくるのも、自然環境が極端になったものを裏返してくれるからだろう。
ウクライナ本土とクリミア半島のあいだに横たわるアゾフ海の西岸に腐海があるのも、戦争から平和へと、極端になった人類の裏返りを暗示していたらいいなと思う。
No.05214 24.05.22 メッセージ
「メッセージ」というSF映画を久しぶりに見た。
地球上に12箇所、謎の宇宙船が飛来し、ただ黙って宙に浮いている。
その様を見て、人類が何を始めるのかがこの映画の内容。
主人公の言語学者が、異星人の言語を解読していくにつれ、特殊な能力を開いていく。
ホロンとしての言語についてこのところ考えていたので、公開時には受け取れなかったメッセージがなんとなく降りてきた。
それは言霊がどんなものかという示唆。
No.05212 24.05.19 文字に真理は宿らない
この宇宙に存在するものは、すべて刻一刻変化している。
その変化はとても些細なもので、なかなか気づきにくいものかもしれないが、変化し続けていることは確かなことだ。
例えば、僕たちはいつも同じ場所にいると思いがちだが、宇宙的に見れば常に移動している。
地球は自転しているし、太陽系は回転しているし、銀河系も回転していて、いっときも同じ場所にいることはできない。
自分の体も変化してないようで刻一刻と変化している。
細胞が新しく生まれる一方で死にいく細胞もある。
人間の関係もどんどんと変化する。
社会も実は変化している。
数え切れないほどの変化の中で、僕たちはその変化にあまり気づかないし、気にもしていない。
そのような世の中で、言葉が果たして同じものであろうか?
文字やことばは固定されるが、そこに内包する意味は、その読み手によってどんどん変化していく。
その変化は、メディアが多様になったおかげで、加速度を増して変化している。
だから、文字やことばに真理はさらに宿りにくくなってきた。
そのことを知った上で真理を求める。
真理はきっといつも新鮮なものだ。
No.05200 24.04.25 うまい文章
「この文章、うまいと思う?」
そう聞かれるとたいてい答えに困る。
文章の巧拙にはいろんな尺度がある。
すべての尺度をクリアする文章はないと言っていいだろう。
例えば、物理学者が書いた文章があったとしよう。
内容は専門性の高いもの。
近い分野の科学者ならスラスラと読めるかもしれない。
でも、専門知識が欠けている人にとってはとても読みにくい文章になるだろう。
つまり、読者が変われば、その文章の巧拙の基準も変わる。
そこで言われるのが「一般的読者にとって」という言葉。
これもまた難しい。
一般的読者ってどんな読者だろう?
雑誌の場合は「その雑誌を買うような興味・関心を持っている人」と、ぼんやりとではあるが読者を想定できる。
例えば車をテーマにした雑誌なら、「馬力」「トルク」「ホイールベース」なんて言葉は何の説明もせずに使うことができる。
でも女性誌にこれらの言葉を使うときには多少の説明が必要だろう。
だから、「僕にとってのうまい文章」は、スラスラと読める文章であるが、それが果たして他人にとっても読みやすい文章かどうかは、その人による。
そこで一般読者向けの文章は「中学生でもわかる文章」を書きなさいと言われることがあるけど、それだと説明がくどくなって読みにくくなることがある。
本当にうまいと感じる文章は、僕個人に当てられた手紙やメールで、何の澱みもなく読める文章が届いたときには「うまいな」と思う。
それはつまり書いた人が、僕の興味や理解していることをある程度把握していて、僕のために書いてくれた文章だから。