No.05571 26.08.29 秋の虫の声

昨日と今日の昼では、八度の温度差があった。
そのせいか夜に窓を開けていると、秋の虫の声が聞こえてきた。
今日、急に湧いて出てきたのか?
昨日の灼熱に耐えていたのか?
どちらにせよ、涼やかな声を聞かせてくれ。

No.05565 26.08.13 蝉時雨

台風が通り過ぎて少し涼しくなった。
今日の蝉時雨は、快晴で三十五度を超えたときのものより元気に聞こえた。
酷暑で蝉も夏バテのよう。
嵐を感じる風の中、曇り空でも力一杯鳴いてもらえるとこちらも元気になる。
歌えよ、次世代のために。

No.05564 26.07.24 いなくなったメジロ君

七月頭の台風以来、いつも窓の前で鳴いていたメジロ君がいなくなった。
時々、違うメジロが来ることはあるが、微妙に鳴き方が違う。
どこかに行ったんだなと思うと少し寂しいが、毎日鳴いていてくれたことを思い出すと嬉しくもある。
どこかで幸せに鳴いているといいのだが。
ありがとうメジロ君。
素敵な思い出を残してくれて。

No.05562 26.07.02 毎日のお勤め

台風であるにもかかわらず、メジロ君は毎日やってくる。
たとえ土砂降りでも、少し雨が弱くなると窓の前で鳴いている。
そんなに頑張らなくてもいいのにと思うのだが、彼はやめない。
ひょっとして「そこは俺のテリトリーだ、邪魔だ出て行け」と鳴いているのかもしれないが、僕には愛らしい歌声にしか聞こえない。
鳴いているのを聞いて勇気づけられる。
これも一種のすれ違い?

No.05561 26.06.28 生命の進化

象は飼っていると人間の言葉を覚える。
飼い犬もすべてではないけど、そうなるものがいるようだ。
シジュウカラは文法的な構造を持つコミュニケーションが示唆された。
他にも言葉に近いやり取りをしている動物は報告されている。
ということは、拡大解釈すれば、動物はもしかしたらある環境に置かれることで言葉を使うようになるのかもしれない。
類人猿は声帯や口蓋が言葉を話すようにできていないから話せないだけで、シンボルの操作を可能にしてあげれば会話をするようになることが論文になっている。
だから彼らは例えば、栄養を整えるとか、進化の過程が言語を得るような方向づけをすると、十分な時間が与えられれば、その方向へ進化する可能性があるのではないか。
僕が大学生のころは類人猿のシンボル使用について研究が進んでいた。
それでもそれをどこかで否定していた研究者は少なくなかった。
僕たちは、自分だけが特別な存在でありたいという思いから、新しい可能性を否定してしまうことがあるのではないだろうか。
もしそうだとすれば、その恐怖心は動物に対してだけではなく、人間同士の文化や思想に対しても働き、互いを理解することを難しくしているのかもしれない。

No.05560 26.06.26 つきあってやるか

今日もいつもの枝に来た。
最近ではこの辺りに変な奴がいる。
俺の声を真似しているみたいだけど、全然違うんだよ。
何度聞かせても同じには鳴けない。
ついには短く鳴いてみたけど、それでも同じには鳴けない。
どうしたんだと思っていたら、俺より何十倍もでかいやつが人間の建物から出てきた。
なんか道具を使って鳴く真似しているけど、全然ぜんぜんゼンゼン違うんだよ。
でも、なんか嬉しそうにしているからつきあってやるよ。
と、メジロは思っているかな。

No.05559 26.06.24 メジロの誘惑

今日もいつもの木からメジロが元気に鳴いていた。
それを聞くとついバードコールで返事をしたくなる。
いつまでもそれをしていると自分の仕事が進まないので、いい加減にして切り上げるが、それでも鳴いているとつい気持ちを持っていかれる。
誘惑の基本はこれだよなと思う。

No.05556 26.06.20 紫陽花の心変わり

梅雨の頃に咲く紫陽花。
道端などに咲いていると綺麗だなと思えるが、「好きか?」と聞かれると、つい「いいや」と答えていた。
ふと「それはなぜか?」と考える。
花言葉が「心変わり」だという理由だ。
なぜその花言葉になったのかというと、花の色が変わっていくからだろう。
そんな理由で嫌われていては、紫陽花がかわいそうだ。
紫陽花はただ色が変わる花だというだけで、誰かを裏切ったわけでも、騙したわけでもない。
誰かがなすりつけた花言葉という先入観で嫌っていたなんて、失礼な話だ。
生まれてはじめて先入観なしで紫陽花を見つめる。
雨の雫でみずみずしい。

No.05554 26.06.13 世界平和を祈る

人は以前より高度な知恵を持つたびに争わざるを得なくなるようだ。
古事記、日本書紀以前の歴史が露わになりつつある。
しかし、そのような文献はたいてい偽書とされる。
偽書扱いにすることでその研究さえも封印される。
真偽について僕は深く研究していないが、バリ島に何度か通ったことである気づきを得た。
それは、統一された神道は古事記以前にはなかったのだろうということ。
バリ島には各地に王族がいる。
それらの王族は似てはいるが別の宗教体系を持っていて、互いにそれがどのようなものかを秘密にしている。
これは宗教の発生を考えるときに、そうなるだろうなという予測がある程度つく。
日本も土地ごとにいろんな神様がいて、その神様がどんなことをしたかという伝承は、距離が離れれば離れるほどさまざまなものになっただろう。
だからこそ日本書紀では似た話のいろんなバージョンが収められている。
地域によってはあまりにも独特で、日本書紀に収められなかったものも多数あっただろう。
それらを古事記で統一し、ある時からそれ以外の話は認めなくなった。
そういうことだと僕は理解している。
人間は次第に生息域を広げる際に、もともとあった文化同士がぶつかり合い、どちらを採用するかで争うことになる。
平和に融合し、文化が高度化していけばいいのだが、そうならないことが度々起こってきたようだ。
そのようなとき、どのように互いの文化を融合させるかについての知恵が、あちこちで生まれただろう。
それは世界的な知恵のネットワークがなかった時代ではいろんなものになる。
そこで、平和的融合や、武力による制圧が生まれた。
その表面上のことを僕たちは歴史で学ぶ。
しかし、その時代に生きていた人たちにとって、そこで学ぶこと、または強いられることは、その時代、その地域の文化を作る上で大きなことであり、その結果生み出された遺物や文書は現代にも残されれば得ることができるが、形に残されなかった口伝のようなものは推測に頼るしかない。
非二元論という明確に言語化できない知恵について追いかけているのは、きっとどこかで平和についての隠された知恵について触れることができるのではないかという期待からである。
しかし、それは表面上、まったく別々の表現になっているため、統一された思想体系のようには思われない。
その骨組みがやっと分かったが、それを他人に説明するのが難しい。
四苦八苦している。
chatGPTを相手に対話を重ねている。
以前より考察の広がりが早くなった気がするが、chatGPTは滅多に相手を否定しないので、上手い話ばかりが集まってきているようで、自分で考えたほうがいい方向性が探せるのかもしれない。
そんな試行錯誤を繰り返している。
これは僕の世界平和への祈りの形なんだなと思う。

No.05547 26.06.04 非二元論

非二元論についていつか知りたいと思ってきた。
その概要について理解したと思うので、「ヌースフィアってなに?」にその内容を少しずつ伝えていく。
でも、かつての聖者たちがみんな「表現不可能」とした考えを表現していくのは無謀なことである。
でも、それを言葉に、映像にしていく。
理解してもらえるかな?
理解できたら非二元論ではないのだよな。
未熟な考えをさらしていくことになるのかも。
でもそれをしてみたい。
ここまで来るのに30年以上かかったんだ。

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「ヌースフィアってなに? 第17回」を
YouTubeにアップしました。
今回のテーマは
「非二元論を学ぶ1」です。
https://youtu.be/iS8cOdy6NtM