むかし幼い頃、神社でお参りするのに「何かを願いなさい」と教わった。
きっとそれが人生はじめての祈りだったと思う。
歳をとるにつれて祈りの意味は変化していく。
大人になった頃、祈りは感謝になっていた。
三十を過ぎてバリ島のニュピに通うことで、祈りは多次元的なものになった。
空海の著作や仏典の現代語訳を読んでさらに明確になった。
「いまここ」にすべてがある。
No.05366 25.03.02 瀧川神社
静岡県三島市にある小さな神社。
瀬織津姫を祭神としている。
修験道の禊道場だったといわれる滝の前にあり、常に水音がしていて心地よい。
今年の例大祭に柚楽弥衣さんの歌唱とアムリタ朝子さんの舞が奉納された。
No.05364 25.02.25 自由に見る
世の中を自由に見ることができると可能になることが増える。
「頑固じじい」が「規律に厳しい人」と思えたり、「万人に平等に接する人」に思えたりする。
「話すことが支離滅裂な人」を「自由に話を飛躍させる人」に思えたり「固定観念に縛られない人」と思ったりする。
「敵対者」を「親しいひとにだけ優しい人」と見たり「助けたい人だけを助ける人」と見たりする。
そうやって目の前の人と接することによって頼みごとをスムーズにするのが「観自在菩薩」ともいわれる観音様なのかなと思う。
No.05360 25.02.15 仏典がここにあること
いろんな仏典を読んできた。
二千年以上昔に書かれた書物を今読む。
それだけでも奇跡的だが、その内容もすごいとしか言いようがない。
ありがたいことだ。
No.05345 25.01.12 仏典と聖書
仏典にはいろんなものがあるが、編纂された部分についてはどの時代のなんという仏典の一部を引用しているとか、翻訳の際に加えられたなどと書かれるが、その編纂の良し悪しはあまり問われない。
一方で聖書は、原典から編纂された部分は捏造と言われる。
仏典も聖書も、どちらも誰かが聞いた話を書いたものだが、仏典はどんどん発展して、仏陀が言ったわけではないことも仏典の中に取り込まれていくが、聖書は各時代の権威が認めた文言だけが残され、それ以外は偽書とされた。
二つの宗教の違いが表現されているようで面白い。
No.05285 24.09.22 100歳
昨日、父の誕生日でした。
生きていたら100歳。
父は「敗者の文学」を追求していました。
僕が幼い頃は、「勝者の文学」を追求したほうが儲かって良いと思っていましたが、最近になって、やっとその深い意味が分かってきた気がします。
父さん、100歳の誕生日おめでとう。
No.05261 24.08.11 淀んだ空気を祓う
日本には「祓う」という概念がある。
英語にすると「exorcise」というらしいが、ニュアンスがちょっと違うように感じる。
「exorcise」は「悪魔を祓う」という意味で、日本の「祓う」には確かに「魔を祓う」という意味もあるけど、必ずしも「魔」や「悪」ばかりではなく、「淀み」や「不明瞭な感覚」も「祓う」ことができるだろう。
つまり「祓う」には、多神教的なニュアンスが埋め込まれており、必ずしも悪くなくても、意見や解釈が複雑に絡み合っていてほぐすことができない状態を落ち着かせることも「祓う」ことになるのではないか。
「exorcise」は祓えたか否かがはっきりとするが、「祓う」は複雑な状況を抱え込んで白黒つけるというよりは、考えるべきことに意図を向けた結果、「よし」と言える状況かどうかが大切で、無理に解決に追い込まなくてもいいような気がする。
日本のあらゆる部分が祓われ、世界に波及しますように。
No.05231 24.06.24 結婚式
甥の結婚式に参列してきた。
大きなチャペルで100名近い人たちに祝福してもらっていた。
披露宴は笑いで溢れていた。
新郎新婦の人柄がよく表れていたいい式だった。
No.05223 24.06.05 ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録を読んでみた。
何年ぶりだろう?
いろんなことの例えに思える話が出てくる。
この文書に従い、着々と準備を進めている人たちがいるという。
二千年にわたる呪いと祝福。
心がシンとなる。
No.05215 24.05.25 金光明経
キリスト教では懺悔が大切なおこないとされているが、仏教にも出てくると聞いて興味を持ち、その話が出てくる金光明経を手に入れた。
まだ読んでないのだが、積読状態のその本を見てふと思い出したことがあった。
30年ほど前、ある女性に声をかけてもらったことがきっかけで、巡り巡ってその後『胎内記憶』を書くことになった。
その後疎遠となったが、お礼も言ってないし、「懺悔」ということばに何か響く部分があった。
そう思った次の晩、長い夢を見た。
30年前の、ずっと忘れていたことと、何か関係のありそうな出来事が出てきた。
朝には覚えていたのだが、今はまた忘れてしまった。